見出し画像

今福匡先生に『図説 上杉謙信』の読みどころを解説していただきました

3月の新刊、今福匡著『図説 上杉謙信 クロニクルでたどる〝越後の龍〟』が刷り上がって参りました。3月17日の刊行を予定していますが、刊行に先駆けまして著者である今福匡先生に本書の意義・特徴・読みどころを解説していただきました。

本書の書誌情報等については、リンク先をご覧ください。

著者の今福先生はを戦国大名に上杉氏を中心に研究を進めておられ、『上杉謙信 「義の武将」の激情と苦悩』(星海社新書)、『「東国の雄」上杉景勝』(角川新書)ほか多数の著書がございます。

それでは以下、今福先生による自著解説をお楽しみください。
--------------------------------------------------------------------------------------
今回は、『図説上杉謙信 クロニクルでたどる〝越後の龍〟』から、川中島合戦に関する内容についてご紹介いたします。
 上杉謙信と武田信玄が争った「川中島の戦い」は、有名なわりに実態をうかがえる当時の史料がほとんどありません。江戸時代に汎く読まれた『甲陽軍鑑』等によって人口に膾炙し、それは現在まで影響をおよぼしています。
 しかし、近年、既知の古文書の年次が見直されたり、新たな解釈によって甲越の戦いに関する研究が進展しています。
 印象が大きく変わったのは、第一次および第三次の戦いです。川中島合戦の代名詞とも言える永禄4年(1561)の第四次に比べると主力同士の激突もなく、いずれも地味な印象がありました。
 第三次合戦があった弘治3年(1557)のもの、とされる謙信および長尾政景が発給した感状が数通残っていますが、最近、これらは天文22年(1553)、つまり第一次合戦の時のものであるという見解が示されました。感状はいずれも8月29日に発給されています(一点のみ9月20日だが干支が誤っている)が、これらを第一次合戦の時のものと考えると、ちょうど8月から9月にかけて上杉軍が攻勢を強めている時期に相当します。(4年後の)5月に戦われた第三次合戦の折のものとする従来説よりも妥当ではないかと考えます。
 また、これらの感状には主戦場となった「上野原」という地名が出てきます。善光寺の北に位置する長野市上野とする説が有力ですが、本書では近年提示された長野市松代町岩野説を採っています。その結果、従来知られていた布施、八幡での戦闘に、上野(岩野)での激突が加わり、天文22年、甲越両軍が川中島南端で何度のぶつかっている様子が浮かび上がってきました。本書では新説に沿った第一次川中島合戦関係図(p69)を載せています。
 さらに、最近、新たに発見された天文24年時の武田信玄書状が紹介されました。信玄が北信濃の清野氏に宛てたもので、それには清野氏の本領である清野郷に続いて上野郷という地名が記されていたのです。研究者によれば、天文24年時では善光寺の北方の上野を清野氏が管掌することは困難であるとして、清野に隣接する岩野に注目しています。この岩野については、室町時代には上野(うわの)でしたが、江戸時代初期に岩野に改名したことが明らかになっています。
 一方、第三次合戦については、これまで「上野原」で衝突したとふれられる程度でした。しかし、この時の信濃出兵中、謙信が小菅山元隆寺(飯山市)に捧げた願文に自軍の行動が記されています。この願文の内容は、従来あまり採用されてはきませんでした。今回、謙信の願文にみえる動きを図版で再現(p81)した結果、上杉軍が現在の坂城町・上田市の境界あたりまで南下していたことがわかります。
 このほか、第四次合戦についても『甲陽軍鑑』の叙述から一歩進めて、新たな合戦像も提示しています。ぜひ本文でお楽しみいただければと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?