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稙田誠先生に『中世の寺社焼き討ちと神仏冒涜』の読みどころを解説していただきました

皆さまこんにちは、戎光祥出版の丸山です。

 4月の新刊、『中世の寺社焼き討ちと神仏冒涜』につきまして、著者である稙田誠先生に本書の意義・特徴・読みどころを解説していただきました。
本書の書誌情報等については、リンク先をご覧ください。

それでは以下、稙田先生による自著解説をお楽しみください。
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 中世は宗教の時代といわれています。この時代に生きた人々=中世人にとって、宗教性の具象ともいえる神仏は実体を持った存在であると信じられていました。神仏が神仏たるゆえんは、人智を超越した不可思議な力(以下、神威と呼ぶことにします)を発揮するところにあるといえます。神威は病気を治したり戦の勝利に導くなどの現生利益や、来世での救済(浄土往生)といったありがたい力として発揮されました。逆に、神仏を怒らせるなどした場合に蒙る神罰仏罰といった恐ろしい力も神威のあらわれでした。それゆえに中世人は神仏を尊崇したのであり、従来の宗教・信仰の研究もこうした両者の関係性(崇める中世人―崇められる神仏)を前提にしていたといえます。
 ところが、中世の史料を見ていくと敬虔な信仰心とはかけ離れた話に遭遇することも稀ではありません。その最たるものが、寺社焼き討ちや墓の破壊・冒涜、神仏を罵り恫喝する(さらにエスカレートしてこれを葬り去る=神仏唾棄)といった行為言動です。本書ではこれらの行為言動を「神威超克」と呼び、考察の主軸としました。
 中世を通じて繰り広げられた「神威超克」の検討を通じて、神仏と中世人の関係性(とりわけその対立面)の解明と、そこから浮かび上がってくる中世人の心性(心もよう)を考えてみよう。これが本書のねらいです。

 本書はやや長めの序章からはじまります。明治時代から連綿と続く中世宗教史研究の歩みを本書の問題意識との関連で跡付けた後、神威超克が繰り広げられた中世という時代の宗教環境(神仏の特徴など)を素描します。その上で神威超克を論じる意義や世俗化論との関わりについて触れ、本論へと誘います。
 「序章」で示した課題を解明する本論は二部構成になっており、それぞれ4編の論考を配置しました。第Ⅰ部の第1章から第3章までは、それぞれ違う角度から寺社焼き討ちの問題を論じます。第1章は総論ともいえる内容で、中世の寺社焼き討ちの実例を見た後、それを可能にした要因をさぐります。とりわけ「寺社焼き討ち正当化の方便」の抽出に意を払いました。「寺社焼き討ち正当化の方便」とは、寺社を焼くことで生じる葛藤(罪業意識や神罰仏罰の恐怖・後ろめたさ)を克服するための思想的武器、とご理解ください。つまり、儀式や一見屁理屈とも思える正当化の言葉によって「よし、これで罰はあたらないぞ!地獄に落ちる心配もないぞ!!」と思い込むことが重要だったわけです。
 第2章は、「ある寺院を焼く場合、火を懸ける対象によって焼き討ち当事者に生じる葛藤は高下するのではないか?」という着想から生まれたもの。寺院でいえば、より聖性の度合いが高い場所=本堂(金堂)・モノ=仏像(本尊)を焼く場合に、焼き討ち当事者の葛藤は最高潮に達するという見通しを打ち出しています。
 第3章では、第1章で複数の事例をご紹介した「寺社焼き討ち正当化の方便」のなかからふたつを選び、方便がどのような論理で形成されたのかという思想のメカニズムにメスを入れました。ここでのキーワードは「天台本覚思想」と「平和(安穏)」です。
 以上の“寺社焼き討ち三部作(私称)”の後に据えた第4章では、墓・卒塔婆の破壊や冒涜という一風変わった話を取り上げます。中世において、墓には死者の霊魂や神仏が宿るという観念がありました。そう考えると、墓の破壊や冒涜も立派な「神威超克」ということになってくるわけです。

 第Ⅱ部では、神仏と中世人が直接対峙するシーンに着目して「神威超克」の実態に迫ります。その前提として、中世の神仏は仏像や人間の姿など目に見える形で、あるいは目には見えないけれども「たしかにそこに存在する」生々しい実体性を持った存在として君臨したこと、中世人と交感(やりとり)可能な存在であると認識されていたことを押さえておく必要があります。これについてはⅡ部の各所で(あるいは序章で)述べています。こうした中世の神仏観を前提に読んでいただければと思います。
 第1章では参籠祈願(何らかの願いをかなえるため寺社に参籠して祈願すること)の場が舞台となります。懸命に祈願を行っても願いが聞き届けられないと見るや態度を豹変させ、神仏を恫喝してでも祈願成就をなしとげようとした中世人の姿を『曽我物語』をはじめとする諸史料から活写しました。神威のヴェールをまとう神仏を恫喝できた要因は何か?神仏の弱点は何か?といった点も面白いのではないでしょうか。また、神仏を恫喝する際に吐いた啖呵(=神仏恫喝文言)の数々を意訳してまとめた表からも、中世人の心性の一面を見てとれると思います。
 第2章では、神仏恫喝がさらに昂じてこれを唾棄するに至る事例を集めて考察しました。本章では主として戦国時代のそれを検討していますが、裏を返せば戦国時代においても神仏の存在感は健在であったことを言下に物語っています。そこでは無神論者のごとくに神仏を唾棄するのではなく、「これこれしかじかの理由で私は眼前の神仏を唾棄するのだ!」という理由(方便)が表明されていることに注目しました。「これこれしかじか」の内容から、中世人の発想法の一端が透けて見えてくるように思います。
 第1章・第2章で見た神仏恫喝や神仏唾棄(これらをひとくくりにして神仏冒涜とし、書名にも冠しました)。これは、篤い信心を抱いた状態ではちょっと想定し得ない事態です。私は、これまで研究者が主張してきたように、中世人は篤い信心を抱くのが常であったと考えます。しかし、それは妄信的なものではなく、信心は何らかのきっかけで(一時的にせよ)不信心に転じることが間々ありました。この点について織田信長を例に考えようというのが第3章の目論見です。信心が不信心に傾いた結果として、神仏冒涜がなされたといえます。
 続く第4章では、真宗・日蓮宗・キリスト教を信奉する人々による「信心を隠す(秘匿する)」ことの意味とその正当化の問題を考えます。これは神威超克を扱った前章までとは無関係に映るかもしれませんが、「宗教的な問題にぶつかった中世人がどのようにこれを克服しようとしたのか?」という問題意識から生まれた論考という意味で根を同じくするものであり、本書に収録した次第です。

 最後に、全体のまとめと課題・展望を示す終章を書きました。各章で論じた問題を相互に関連付けて理解していただけるよう工夫したつもりです。本書を手に取られた方は、ここからお読みになると筆者の意図するところが理解しやすいかもしれません。
 本書に収めた論考は序章と終章を除いて過去に発表したものを土台にしていますが、新しい事例や論点を追加するなど、面目を一新した所もすくなくありません。
 巻末には各種の索引を付けています。とくに事項索引は本書独自の用語(神威超克・寺社焼き討ち正当化の方便・信仰秘匿etc)はもとより歴史書としてはやや珍しい語彙(怒り・心の揺らぎ・自身の信仰対象を焼く・抹香投げつけetc)も多数採録しているので、ご活用いただければ幸いです。

 繰り返しになりますが、本書は神仏と中世人の対立面に着目することで両者の関係性を探るとともに、中世人の心性・行動様式の一端を論じました。このテーマについてはまだまだ未解明な点がたくさんあります。本書をきっかけにこうした議論に興味を持つ方が増えることを念じつつ、この小文を閉じたいと思います。
                              稙田 誠

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