喀痰吸引をどう克服するか

いざ、身内の介護問題となるとなかなか客観的に考えられないものだ。

無題

前回の教訓からオレの喀痰吸引技術不足が誤嚥性肺炎に直結していると思っている。ここを克服する為には夜間オレをサポート出来るその道のプロが必要であり、「ただ喀痰吸引が出来る」介護士がいればよいという問題ではない。ここはかなりハードルが高いと思っており、この点を訪問看護がどう考えているのかが判断のひとつとなる。オレたちがやろうとしている事は看護であり、医療行為であり、よってサイエンスだ。根性論でどうにかなる問題ではない。

自宅介護に踏み切る場合、やはり最終的な緩和ケアという課題は最重要課題だ。オレが「このあとどの様な死に方が考えられるか?」という質問に医療従事者は皆ストレートな答えを避けるが、すくなくとも肺炎だけは実際に起こしているし、過去の類似事例を素人ながらに調査する限り、「定番」の死に方だ。この症状ひとつとっても、果たして酸素吸入に始まってモルヒネ投与まで訪問医がやってくれるのか、はしつこく確認する必要がある。

今日現在の状況を鑑みて極めて合理的な答えを出すとしたら、まずは「延命措置」となっているTPNを中止し、その結果痰吸引の頻度が無くなるのかモニターしながら家に戻し、衰弱して亡くなるを見守る、、、というのがオレの答えだ。勿論これには医師の合意が必要なんだが。 とりあえず係わる人々の時間や労力、努力、費用、といったものを脇に置いたとしても、在宅に踏み切るという事は本人にとって苦痛とリスクを伴う。「家に帰れて幸せ」というのは本人も認知症の頭で少しは感じるかもしれないが、所詮は周りの思い込みに過ぎない。永遠と続く痰吸引、おむつ、尿道バルーン、TPN薬液の投入(点滴につながれっぱなし)、ほぼ寝たきり状態、、、という苦痛はずっと続き、その苦痛を我々は実感として判っていない。これらのいくつかでも解消できないのであれば我々がこれからやろうとしている行為も「延命措置」と変わりはない。

今回、もしもオレがTPNの中止なしで再度在宅、という案に合意する場合、それはひとつだけある迷い、すなわち、「前向きに死んでいく」事への拘りだ。 仮に可能性が1%であっても回復する見込みがあるならリスクを負い、苦しみに耐える。確かのオレの中にはそれを選ぶオレがいるが、それはオレのエゴで当の本人はそんな事思っていないかもしれない。本人がどう思っているか分からないがそれを我々が選択するのであれば、最低限そのリスクや苦しみを極限まで取り除いてやるのが礼儀というものだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?