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努力する『いい加減』

本でも映画でも、最近はできるだけ何かを得ようという姿勢で取り組んでいる。読む速度が遅い為もあるし、映画を倍速で観るのも性に合わないし、ということで数がこなせないので止む得ない。量より質、のつもりである。

しかし、ちょっと待てよと思った。


少し前に落語を観に行ったが、その時はどうだったか。
好きな噺家さんだったこともあってか、かぶりつきで観た。めったにない機会だからより深く堪能したかったのだ。
終わったら終わったで、一緒に観に行った人とあーでもないこーでもない、オチはこういう意味だった、話し方はどうだった、と互いに思うところを色々話した。
それはそれで有意義だったのだが、上のツイートを目にしてハテ、肩肘張りすぎなのでは、と思ったわけである。

真面目である、とは大体の場合において良いことだと思う。
特に日本人は真面目を美徳としており、国民性にも良くそれが表れている。筆頭は時間厳守の類いではないだろうか。
待ち合わせは五分前集合が常識と教えられ、納期は守るのが最低ラインと指導を受け、電車は数分遅れでアナウンスして当然。
そんな中で生まれ育ってきたので、それを前提として自分も動くし、恩恵もたくさん受けている。
しかしそれが過ぎて、『楽しむことにも真面目』になってはいないか?

『楽しむ』とは、本来人それぞれ違う。
自分が面白いと思ったものでも、他人には全然ウケないことなどいくらでもある。面白いの程度だって異なる。自分自身だって以前は全然面白くなかったものが、時と場合によりめちゃくちゃ刺さることもあるだろう。
異なっていて当然で、だからこそ良いのだ。

落語を観に行った時、「有名な噺家さんだから」「高いお金を払ったのだから」面白くて当然だ、という考えが少なからずあった。
ベテランだから、新人噺家さんのように場が白けることなどないだろう、とも。

別に白けたって良いのだ。

落語はもっと、いや落語に限らなくても、エンターテイメントは何にせよガチガチに画面かぶりつきで観なくて良い。
更に突っ込んで、仕事だって全てに全力投球していては、あっという間にパンクしてしまう。抜くところは抜く、適度に緩急をつけねばならない。
そう考えるとかいけつゾロリ、『まじめにふまじめ』の言葉は真理ではないだろうか。

楽しむことは、もっと自分本位で適当で、いい加減でいい。
その場にいて楽しんでいる人を白けさせるのは心苦しいかもしれない。でも、『楽しい』は強要されるべきことでもない。
楽しむためにある種の努力は必要かもしれないが、その努力の方向は明後日の方向を向いていないだろうか。

昔なにかで読んだ。

「”適当”って、大雑把って意味じゃないのよ」
「じゃあどういう意味?」
「”ほどよく”!」

まこと日本語は、だから面白い。
どっとはらい。


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