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何年経っても素敵なのよさー

昨日は丸一日をブラック・ジャック氏に捧げて終わってしまった。
(一応)予定していた掃除や洗濯などの家事は丸投げで、「こういう時一人暮らしってありがたいよな〜、良いところで『風呂入れ!』って怒られないんだもんな〜」などと考えていた。
なるほど、これが『自由奔放に生きすぎ』ということだろうか。
ちなみに件の占いの顛末を親しい友人に話したらめちゃくちゃ笑ってくれたので一旦は成仏させたと思いたい。

今年はブラック・ジャックの連載50周年ということで色々と各地で催しがあったりするらしい。やはりこういう時は東京が強いよな、と羨ましくなるが、てやんでぃっ、こっち(=関西)には本家本元、手塚治虫記念館があるんだィッなどと自分を慰めてみる。
ブラック・ジャック展、いいないいなー。


あまり記憶が定かでないが、多分初めて手塚治虫作品を意識したのは中学生ぐらいの頃、『アドルフに告ぐ』だったと思う。

手塚治虫作品は小学校や地元の図書館にも蔵書があり、むさぼり読んだがそれだけで飽き足らず、記念館にも突撃した。今はどうだか知らないが、一旦入場すれば自由に蔵書が読めたのである。
楽園である。また久しぶりに行きたい。

もちろんブラック・ジャックもその頃に履修しているが、久々に読んでも変わらず面白い。
神業と呼ばれる手腕で数々の病を治し、四十人並列オペをやり抜いたり、荒野で己を開腹したり、とんでもドクターなブラック・ジャックだが、人並みに驕ったり、打ちのめされたり、限界を感じたり、「医者は何のためにあるんだ!」と叫んだりもする。
そう高尚で崇高な姿もあったかと思えば、ピノコにやりこめられて痛い目をみたり、せっかく稼いだ高額の報酬をポンと放棄したりする。
小憎いあんちゃんなのである。

50年経って人の環境もそこそこ変化し、医療も数段レベルアップしたことだろう。そう言えば難病を患う若い夫婦が冷凍カプセルに身を投じ、治療法が確立される未来まで眠りにつくという話もあった。あれも今ならもしかして、と思ったりする。
しかしながら、今の世にブラック・ジャックが再来したとて、やっぱり彼は同じことで悩み叫び、怒るのではないだろうか。
漫画に限らず小説、映画、TV、医療をテーマとしたドラマはどれも面白いが、ブラック・ジャックの頃から悩みや越えるべき壁といったものはあまり変わっていないように思う。
そういう意味で、やはり手塚治虫は嚆矢であったなと思ったり。



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