藤田直哉『新海誠論』評からの私的新海誠論ーー新海誠は今でもセカイ系作家である

藤田直哉『新海誠論』(作品者)書評

藤田直哉『新海誠論』(作品社)はこれから新海誠を論じる場合に、必読となる文献だ。ここでは、本書の魅力を3つ紹介したい。

①フィルモグラフィを3つの期に分ける

まず藤田は新海誠の映画作品、『ほしのこえ』から最新作『すずめの戸締り』までの8作品を、3−3−2の3つの期に分ける。『ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所』『秒速5センチメートル』をセカイ期、『星を追う子供』『言の葉の庭』『君の名は。』を古典期、そして『天気の子』『すずめの戸締り』を世界期と名付ける。1章ごとに1作品を論じ、論点を切り出しつつ、期ごとにまとめていく。
 思い返してみれば、新海誠はセカイ系の代表的作品『ほしのこえ』の生みの親である。セカイ系とは、(本書やセカイ系論に詳細な定義は譲るが)簡単に言えば、世界の危機と「きみとぼく」の関係が重ね合わされ、本来であれば間にある様々な(中間)共同体がすっぽりと抜け落ちている物語のことだ。世界を描いているようで、本来的な世界とは異なるという意味を込めて(揶揄も含めて)カタカナでセカイと表現される。
 大ヒットし国民的アニメ監督へと彼の知名度を押し上げた『君の名は。』から新海誠作品に親しむようになった多くのファンに、新海誠のセカイ系という出自をうまく説明するのは、ちょっと大変である。が、本書で藤田は丁寧にその作業をしている。新海誠『ほしのこえ』はとても話題になったのだが、何がどうして話題になったのかが、その場にいなかったものにも届くように、きちんと整理されているのだ。
 私は『ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所』と続いたことで「新海誠はSF系」と思っていたのだが、気がつけば、SF的要素は退潮し、本書が言う古典的要素(日本の古典作品、神道、アニミズム、ひいては縄文)が前景に来ている。ここには新海誠の海外経験も作風の変化に関係しているだろうことが指摘されていて興味深い。
 というように、経年で作品を3つの期に分類しつつ論じることで、新海誠の連続性と(断絶とまではいかないが)変化がわかる構成になっている。

②新海誠の発言や伝記的情報を紹介する

 新海誠による発言をかなりの量、集めている。また、新海誠の映画以前のキャリアや、彼の生い立ち(繰り返し映画で描かれているような原ー風景)も紹介している。今後、新海誠論を展開させてく場合に、ひとつの参照点として本書は使われるだろう。
 個人的に興味深かったのは、新海誠がゲーム会社でのゲーム・アニメ制作から、映画監督になった点だ。新海がニューメディアとしてのインターネット/デジタル)を作品の内外で十全に展開・探求している、と藤田は指摘している。

③新海誠の可能性をアニミズムや縄文性に見出す

 新海誠が、賛否を呼ぶ作品を作っていることは確かだ。特に『君の名は。』以降、震災、気候変動など社会的ー世界的テーマを扱い、ある意味で大人たちが原因となった問題を子供達に直面させ、時に難しい決断を彼ら彼女らに強いて/任せてしまう。特に『天気の子』である。水没していく世界を、それでも「大丈夫」と肯定することは(若者にとって)可能なのか? それは「ほんとうの肯定」なのか? 藤田は『天気の子』を縄文映画と位置づけ、「未来と、過去にあったアニミズム的な時代が重なり合う」と言う。アニミズムも本書を貫く重要なキーワードだ。自然/文化の分割線がいまほどにはっきりと引かれず、ゆえに支配・非支配的ではない時。ハイブリッドな、多種多様な、雑多なものを受け入れ、自ら生成変化していく「習合」的な状態。そのような異種混淆性をもつアニミズムを、新海誠の作品(物語の水準)だけではなく新海誠の映画の作り方(メディアの水準)の両方に見出している。

 以上が藤田直哉『新海誠論』の特徴だと私が思うものを紹介してみた。なお、本書は映画『すずめの戸締り』公開とほぼ同時に発売されているが、小説版をもとに『すずめの戸締り』も論じている。ネットには藤田直哉の映画版『すずめの戸締り』論も読めるので、本書を補完できる。

私の新海誠論

さて、ここからは私の新海誠論を書きたい。

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