人間の認知に基づいた合理的な英語学習法ーー今井むつみ『英語独習法』岩波新書

本書は人間の認知に基づいた合理的な英語学習法を紹介している。

そもそも人間の脳は特定のパターンで世界を認識している。ありのままに見ていることはなく、情報処理の負荷を減らし、なるべく効率よく意思決定できるように、進化の過程で独特な「歪み」を持っている。(詳しくはダニエル・カーネマンの『ファスト・アンド・スロー』参照)

言語を使う時にもこれはあてはまる。私たちは認知的な負荷があまりにもかかることは、無意識で避けてしまう。外国語の習得などその最たるものだ。筆者はスキーマという言葉でこれを説明する。スキーマとは「ある事柄についての枠組みとなる知識」「知識のシステム」で、持っていることを意識できない、海の下に沈む氷山の大部分のようなものとされる。母語のスキーマと外国語のスキーマはまったくことなり、私たちは知らず知らずのうちに、外国語を母語の枠組みで捉えてしまう。これは認知的負荷を避ける脳の本能的な行動ともいえるが、この「回避行動」を私たち自身がはっきしと意識し、注意をむけ、克服しないと、外国語の知識を「身体化」することはできないのだ。

本書で紹介していた日本語の英語のスキーマの違いでなるほどと思ったものがある。それは行為を表現するときに、日本語では「動詞+擬態語+別の動詞」とするが、英語だと「様態の描写を含む動詞+前置詞」とすることだ。英語の小説を読んでいると、やたら「擬態語+動作」を示す動詞が出てくる。その都度、辞書をひいたり、あるいは文脈からざっくり動作の類推するのだが、私はいつまでもその単語を覚えることはない。結局、日本語スキーマで動詞の意味をとらえて認知的負荷を回避しているからだ。まあ小説を読むのは、英語の勉強でもあるが物語を楽しむためでもあるので、ある程度の認知的負荷の軽減はしょうがない…と半ばあきらめてもいるが、これなど「多読」が語彙の強化につながらない一つの証拠だろう。

本書はとにかく語彙をプッシュする。単語帳的な一対一対応の語彙ではない。もっと広く、スキーマと連結した語彙のことだ。構文、共起語、頻度、文脈、多義性、概念というネットワークの中である単語がもつ意味・どのように使われるかをオンライン・コーパスを用いて、自分で考えていく。大事なのは、自分で考えることだ。自分で考えることなしに、外国語のスキーマを獲得することはできない。なるほど、確かに合理的だ。そして合理的=簡単、ではないことに注意。外国語学習はかように奥深く、そして楽しい。(これを楽しいと思うかどうかが、言語学習を続けられるかどうかの分かれ道なのかもしれない)(2021年7月12日)

追記(2024年7月15日)

英語はずっと勉強している。中学生で習い始めたのでかれこれ25年以上は勉強している。最近は、英語ニュースを読んだり聞いたりしている(ほんとは小説を読みたいのだが、なっかなか時間が取れない。)英語を使うのは好きだし、英語を学習するのも、(あまり長時間でないなら)それなりに楽しくやれる。とはいえ「外国語学習のこれから」を考えることは、けっこう多い。それも昔よりも多い頻度で、考えてしまう。

Chat GPT 4oのデモを見て、けっこう衝撃を受けた。すでにChat GPTを使えば、かなり正確な機械翻訳はできる。これに音声でのスムーズなやりとりが可能になれば(可能になっているのだが)、「ほんやくコンニャク」は社会に実装されるだろう。それも格安で。ごく一部のエリート(マニア?)は、自分の脳で外国語を習得・運用するが、それ以外のほとんどの人は、コストに見合ったベネフィットを考えると、長く険しい外国語学習の道を歩むより、ほんやくコンニャクを使うことを選ぶだろう。重要な局面ではミスがないように二重三重にチェックをするが、たいはんの場合は重な局面ではないし、えてしてそういう場面ではコミュニケーションの非言語的な側面も重要なので、言語それ自体の精度はじつはそこまで重要ではなくなる。

という世界はもうすぐそこまで来ている。2030年代にはそうなっているのではないか? 私が高校生の頃、機械翻訳を研究していた大学の理工学部の先生は「機械翻訳はとうめん無理」と聞いていた。25年前なので、それが「とうめん」なのかどうか。

このような社会で外国語学習をやる意義はなんだろうか。

①外国語学習は知能訓練になる。
②外国語学習は異文化理解を促す。
③外国語が学力試験で課される。
④外国語の習得はより高い給料をもたらす。

④はこれからもありえるが、これまで同様の「高い給料」ではないだろう。これまでと同じ規模でもないだろう。ごく一部が、ごく高い給料であるが、私程度の英語運用能力だと給料をあげるほどの効果はなさそうだ。

③は①とも連動するが、しかし、大学の背後に産業界があり、産業界のニーズが変われば大学のカリキュラムや入学試験はかわるだろう。「社会で使う」から外国語(とりわけ英語)を学習する・学習させる環境があるので、このハシゴが撤去されたら、いまほどの需要も供給もなくなるだろう。とはいえ教育機関には慣性があるので、今すぐになくなる可能性は低い。選択科目になったり、今の古典・漢文のような位置づけになるのでは。現状、「なぜ古文を勉強しなければならないのか?」という議論は定期的におこるので、今後は「古文」のところに、外国語(英語も)が入る。

②は「なぜ古文を勉強しなければならないのか」への問いの一つである。教養。歴史。文化。古文の場合は日本の古典教養だが、外国語の場合は、その外国の文化・歴史・教養である。翻訳でいいではないか? という立場はある。ただ、どうしても翻訳不可能なものはある。とくに文化と密接に結びついた概念・慣習は。(わ「ほんやくコンニャク」の翻訳不可能性と私は呼んでいる。)

また、②と関係しているが、外国語学習は自分の母語スキーマをカッコに入れて言語運用を相対化して分析的に理解する必要があるので、①がでてくる。もっとも、知能テストとしての外国語であれば、その言語が英語である必要はない。

社会が変化していくなかで、外国語学習のモチベーションを保つことは、ますます難しくなっているのではなかろうか。まとめると、外国語学習には大きく分けて認知能力の訓練と必要性の2つの意義があったが、必要性が薄れてきたときに、それでも認知能力の訓練として外国語を学習し続けるモチベーションは持てるのか? となる。生成 AIがスムーズな文章を簡単に作成できるときに、紙と鉛筆を使って作文練習するモチベーションはあるのか? と似ている。作文練習する意義はあるが、その意義がみたところの必要性のなさによって、押し流されてしまっている。




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