カッコ付き「ネット右翼」になった父ーー鈴木大介『ネット右翼になった父』(講談社現代新書)書評

衝撃的なタイトルである。発端は2019年に筆者がウェブメディア「デイリー新潮」に寄稿した記事だ。

本書にはこの記事も再録されている。ウェブ記事はかなりバズって(話題になって)、私も当時、「高齢親族(父)ネトウヨ化問題」の事例として、読んでいた。本書は2023年に出された本。この記事の「その後」である。すでに亡くなってしまった筆者の父の「その後」があるのか? といえば、「ある」のだ。筆者は2019年の記事で、喪失と混乱の中、父親のネット右翼化の原因を「古き良き美しいニッポンに対する喪失感」と、隙間を埋めるように繁茂する「右傾コンテンツ」ビジネスに求める。この見立ては、むろん筆者がしたもので説得力があるように私は感じたのだが、他方で家族として父親と接してきた筆者には、どこか腑に落ちないところもあった。筆者の見立てと、遺された家族(母、妹、姪)から聞く生前の父の印象を比べてみても、何か違う…。父がネットの右翼/ヘイトコンテンツに触れていたことは事実であるし、ネットのヘイトスラングを筆者の前で使ったことも事実である。だから筆者は「ネット右翼になってしまった」という記事を書いたわけだが、しかし本当に「ネット右翼」になってしまったのだろうか? そこで、父親の死後、約3年かけて、父にいったい何がおこったのか、本当に父親は「ネット右翼」になったのか、を調べ、考え、まとめたのが本書なのだ。

そもそもネット右翼とは、あるいは保守や右翼とはどのような思想、どのような態度を指すのか。筆者は左右両方の論者が書いた本を参考にチェック項目を作り、父の言動を照らし合わせていく。存命の叔父(父の弟)や、退職後に親交のあった父の友人、つまり「同世代」の人からも話を聞く。むろん自分を含めた家族の話もまじえて。家族の場合、母(父の妻)、筆者、妹、姪(妹の娘)と三世代に渡る。

その結果、見えてきたのは「ネット右翼」という言葉のもつ記号性である。ネット右翼だけに限らない。おもにネットで流通する人々の分断を促すようなカテゴリー(分類)がもつ記号性である。ひとたび、そのラベル(レッテル)が貼られると、どんな多様性をもっていても、単純な一枚岩へと削減されてしまう。政治や社会、思想に関するチェック項目も、複雑な回答があるのが現実のはずだが、右ならこれ、左ならこれ、と「パッケージ」される(筆者はこれを「価値観の定食メニュー化」(三浦瑠麗の本より)と呼んでいる)。筆者が父のパソコンにヘイトコンテンツへのリンクを見つけた時や、ヘイトスラングを耳にした時に、父の「その他の部分」を捨象して、「ネット右翼」と認識してしまったのではないか? と自問する。ネット右翼自体が、攻撃対象を過度に単純化しレッテルを貼るように、筆者も「ネット右翼」にレッテルを貼ったのではないか? 父が実際にヘイトコンテンツの何のどこまでどの程度、信じていたのか、なぜそれを耳にしていたのか、といった具体的な話は聞かないままで。聞ける関係性になかったことを、筆者は後悔していて、同様の問題に直面した人にむけて、どうやって関係性を作っていけばよいか、具体的なアドバイスもしている。

筆者のアドバイスで強調されるのが、自分の気づいていない歪みを自覚することだ。自分はネット右翼はどんな主張をすると思うのか? どんな人たちと思っているのか? ネット右翼の主張のどこに自分は耐えられないのか? 筆者は自分を見つめ、自分の歪みと、ネット右翼とレッテルを貼ってしまうことで相手の中にある見えなくなったものに気がつく。生活空間を共にするのであれば、分断は解消可能ではないか、と筆者は言う。分断の原因は「相手の等身大の像を見失うこと」であり、であれば解決策は「等身大の像を見直す」ことだ。ネットで「批判」される社会的弱者と実際に接したことがない場合や、世代に埋め込まれた偏見(当時の「常識」)は、その人の人生の一部だ。筆者も言うように、これはとてつもなく大変な作業だろう。筆者の場合、ウェブ記事1本ではぜんぜん足りず、結局新書1冊と約3年の月日を必要とした。ただ、これは世界中の見ず知らずの人にやれることでも、やることでも、やるべきことでもないのだろう。自分の大切な人、生活空間を共にする人と分断されそう/しそうになったときに、するべきことなのだろう(※)。

本書のタイトルは『ネット右翼になった父』だが、読み終わってネット右翼には「ネット右翼」とカッコがついた(少なくとも私の中では)。

(※補足)実は、この点に、私は分断解消の希望と、分断解消不能の困難の両方を見た。生活空間を共にしない人と分断が生じた時、どうすれば良いのだろうか。例えば、生活空間を共にしない困窮状態にある人たちを支援していくには、社会的なコンセンサスを形成する必要があるが、果たしてそれは可能なのか。おもにネットで記号的に増殖していくレッテルを、剥がして、ひとりひとり「等身大の像」を取り戻すことはできるのだろうか、と。話を大きくし過ぎている自覚はあるし、筆者はそこまでの話をしているわけではないこともわかっている。が、気になってしまうのである。

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