嗚呼、憧れと焦りの日常系YouTubeーー青田麻未『「ふつうの暮らし」を美学する』(光文社新書)

あまり美学系の本は読まないが、「日常美学」なる枠組みで「日常系vlog」についても分析していると知り、手にとって読んでみた。むちゃくちゃ面白い。そもそも「美学とは何か?」という話から入り、学問として定義された美学から、いかに日常や、日常にあふれる感覚的なもの・親しみ深いものが分けられて来たか(ありていにいえば、追い出されてきた)が説明される。その上で、「ふつうの(平凡な)」日常を、美的感覚を見出す機会と捉え直す機運が、現代美学にあると紹介される。という大きな見取り図を提示されつつ、具体的に「家具(イス)の機能美」や「地元」「料理」「日常系vlog」が取り上げられ、理解しやすい。話題のひとつひとつが馴染み深いものでありながら、自分にも思い当たる美的経験があり、この具体例自体が、「新規さvs親しみ」の実践例ともいえる。

で、「ふつうの暮らし」を切り取るvlogについてである。以前、「40代の男がひとり飯を食べる動画」を見ることにハマっていると書いたが、なぜハマっているのか自分でも不思議だった。YouTubeには似たような「ていねいな暮らし」系動画がたくさんあるので、私以外にもこの手の動画にハマっている人は多いと想像できる。筆者もその一人であり、「憧れ」と「焦り」という2つの観点から、日常系YouTubeを分析している。

日常はルーティーンから構成されているが、そのルーティーンにも階層があり、生命維持から、社会生活、最低限の福利、仕事、趣味といった幅がある。この階層移動が「憧れ」をうむ。自分にとってのあるルーティーンが、別の人にとっては同じルーティーンでも階層が異なることはありえる。日常系YouTuberの動画を見入ってしまうのは、掃除や料理といった、私にとっては生命維持に近い階層のルーティーンが、とても美しい&きれいなもの(趣味の階層)として提示されているからだ。むろん、動画は日常の一部を切り取って見せているのだが、切り取るもとが美しくもきれいでもなければ、切り取ったものは美しくもきれいにもなりようがない。

「焦り」とは「自分の生活を乗りこなす感覚」だ。日常系YouTuberが、ただダラダラと自宅でくつろいでいる様子をみたとしても、なんでだろうか、私には生活に押し流されているように見えない。ひとつには、自分のダラダラしている様子を撮影して編集して動画として公開しているからだろう。自分の生活の良い点も悪い点も、カメラで撮って客観視し、編集(字幕、効果音、BGM、特殊効果など)でツッコミ(=批評)しているのだ。なんならコメント欄で視聴者とコミュニケーションもしている。自分の生活を乗りこなしている!(たとえダラけていても)

筆者の「憧れ」と「焦り」という指摘は、なるほど! である。日常系YouTuberは「属性」を動画タイトルに入れることが多い。私がよく見るのは「30代・40代」「男性」「独身」「非正規」「工場勤務」など。ここからは少し難しい書き方になるので慎重に読んでもらいたいのだが、「属性マウント」を取りたくて見ているわけではないのだ。「このYouTuberよりも自分は恵まれている」と安心したいためではない。むしろ「憧れ」や「焦り」を感じている。いくつかの客観的な指標では(おそらく)そうではいのだが、少なくとも私の感性的な水準では、彼らの日常動画は私の「憧れ」と「焦り」の対象なのだ。しかし、と続けなければならい。彼らが、日常系YouTuberとして「良い動画」を日常から切り出せるからといって、彼らの社会的状況(YouTuberの一人は自分を「弱者男性」を規定していた)が肯定されるべきと思えない。ここには、すごく難しい現象が発生しているのではないか? と思う。資本というかYouTubeが、YouTuberの(社会・経済的には苦しい)日常を自前の技術で美的な日常系動画としてパッケージするのを助ける/可能にするとき、「新しい搾取」が起こっていないだろうか? と、問題提起して書評を終える。(筆者への問題提起ではなく、日常系YouTubeというジャンルへの問題提起)


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