〈その場所〉で読みたい小説――燃え殻『これはただの夏』

燃え殻は『ボクたちはみんな大人になれなかった』を読んで、好きになった。

その日は確か、大学時代の友人と品川で飲むことになっていた。私はちょうど飛行機で東京に戻ってきていて、家に帰るのではなく、そのまま約束の品川で降りた。とはいえ時間よりだいぶ早いので本屋をぷらぷらしていたら、ネットで話題になっていた『ボクたちは』を見つけた。酒を飲みながら読みたくなったので友人たちを待つ間、店に入って一人でビールを飲み始めた。読みながら、「これは品川ではない、渋谷だな…」と思ったのだった。本は持ち運べるメディアだ。だからどこでも読める。原理的には。でも読みたい場所がある。それを〈その場所〉と私は勝手に呼んでいる。

ここでさらに自分の話。そのころ、渋谷にはあまりというかほとんど行かなくなっていた。年1回行くかどうか。行くとしたら人間ドックで。ある年の人間ドックの帰り、渋谷東急の丸善ジュンク堂で『ボクたちは』の文庫本を見つけたので買った。今度こそ渋谷だ。

百軒店入ってすぐにある名曲喫茶ライオンへ行って読んだ。円山町のラブホテル街の入り口にある名曲喫茶は、大学のころからよく使っていた。サークルの読書会を(今は立ち入り禁止の)地下室で開き、盛り上がっては声が大きいと店員に注意されたのだった。読書会は夕方には終わり、その後、飲み屋に流れていくのだが、ちょうど昼と夜の境目あたりの時間で、円山町のラブホテル街に消えていく人々の後ろ姿を見ていた大学生だった。

大学を卒業してからしばらく小劇場に通っては芝居を見ていた。よく出没したのが駒場アゴラで、最初のうちこそ渋谷から東急線で向かったが、二駅なので歩いても行けることがわかりよく歩いた。芝居を観終わった帰りは、時間を気にすることもないので、円山町のラブホテル街をひとり歩くことも多く、やはり不審者に思われたのか警察官二人組に職務質問もされた。(ちょうど芸能人がそのへんで覚せい剤所持かなにかで捕まったあとだった。)

『ボクたちは』の読書体験と、自分の〈その場所〉についての記憶がオーバーラップしながらじわじわと記憶の泉から湧いて出てくる。もちろん、記憶違いや無意識的な嘘・美化もあるだろうが、じわじわと湧いてくるのは本当である。

『これはただの夏』とも『ボクたちは』とも直接に関係ない「自分語り」をしたのだが、なんだかこの「自分語り」は燃え殻の小説の特徴なのではないか、と思う。小説自体が筆者の自分語りをしているのだが、それを読んだ読者も「いつ・どこでその小説を読んだのか」語りたくなる。私は好きで本を読むのだが、すぐに内容を忘れてしまい、いつ・どこで読んだのかもあまり覚えていない。(それこそ燃え殻のエッセイ『すべて忘れてしまうから』だ)しかし、例外はあって燃え殻の小説は、いつ・どこで読んだのか、ちゃんと思い出せるのだ。(内容は怪しい箇所もあるのけれど)

小説が読者(少なくとも私の)一部になる、というのはこういうことかもしれない。なんて思うのが燃え殻の小説で、ながながと小説それ自体と関係ない話をしてきたのは、小説の内容を紹介するのは「もったいない」ので、できないから。タイトルにも帯にも文体にも、すべての要素が壮大なネタバレともいえるけれど、それでも読んでしまう。読んでしまったあと、もったいないので読まなければよかったと後悔しながら、でもやっぱり読んでよかったと思う。私は幸いにして(内容は)「すべて忘れてしまう」こともあるので、いつか文庫化したときに、また楽しめるんだと思う。

今度は〈その場所〉である五反田で。(2021年9月25日)

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