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紀伊國屋トークイベント 1人反省会(後半)

おかげさまで満員御礼の紀伊國屋トークイベント。来場された方、本を買っていただいた方、準備をしてくださった方、ありがとうございました。
イベントで話題になったこと、会場からの質問を私の視点で振り返り、言葉を繋げてみたい。(あくまで私視点である)

④労働と消費の一体化

私が「労働解放ディストピア」で指摘したのは、人間がロボットや人工知能を作って労働を解放した世界が誕生しても、そこは思っていたようなユートピアではない、ということだ。いくつかの作品を取り上げたのだが、いずれも労働とセットで人間の一部も喪失してしまう。「人間にとって労働は大事である」と言いたいのだが、しかし、この言葉はともすれば「ブラック企業」や「サービス残業」「やりがい搾取」に、「自己啓発」へと回収されてしまう。もう少しマイルドに、しかし決定的に重要な、労働を通じたコミュニケーションの回路を作れないものだろうか。

円堂さんは、セルフレジやレストランの配膳ロボットを例に「消費と労働が溶け合う」シーンを解説していた。多くの人が思うように、完全なオートメーション化は不可能である。人間と機械(人工知能含む)が接する面には、人間が機械に合わせる、すなわち労働する場面が絶対に生じる。例えば、ウェブ上での不適切な画像を人工知能が判別できるようになるまでに、膨大なデータを人間が仕分けしなければならない。暴力的あるいは性的、もしくはその両方の画像をチェックしなければならない仕事は、先進国から追いやられ、発展途上国の労働者にリモートで発注される。これを「ゴーストワーク」と呼ぶ。私が論じた作品ではピクサーの『ウォーリー』にオートメーションの問題が描かれている。

ひょっとしたら、人間の労働とは、人間と機械の境界面にのみ存在するのかもしれない。1次産業、2次産業であれば、人間と自然のあいだに労働が生じていたのと類比的に。

SFや、あるいは論者によっては主張する、労働のオートメーション化からのユニバーサル・ベーシックインカムという「ユートピア」には警戒した方がいい。(アニメ『PSYCHO-PASS』を見よ。)

⑤ハラリのホモデウスはユートピア? ディストピア?

フロアからの質問で、ハラリの『ホモ・デウス』のビジョンはユートピアなのかディストピアなのか、というものがあった。戦争・貧困・疫病という人類史における三大危機を克服した人類は、次なる段階として不死になる。ホモデウス(神的な人類)は、ポストヒューマン思想である。しかし皆が一様にホモデウスになる/なれるわけでもなく、1割/9割でホモデウスとホモサピエンスに分かれると、それはユートピアなのか、ディストピアなのか、という問いかけだった。とても鋭い指摘なのだが、私がうまく返せなかった。反省会なので、どう返したらよかったかと、考えている。

ひとつは『ホモ・デウス』はイスラエルーガザ戦争の前の本である。ロシアーウクライナ戦争、コロナパンデミック以前でもある。(もっとも日本語版前書きには後者の2つについての追記がある。)イスラエル人であるハラリがパレスチナ(イスラエルの占領政策)についてどう思っているか、は重要だと思う。のだが、ではハラリがどう思っているかについては、開戦当初のインタビューしか見たことがなかったので、ハラリの立場が不明瞭であった。

ということで、事後だが調べてみると、ファイナンシャル・タイムズにこんな記事を寄せていた。

https://www.ft.com/content/459c1bad-a121-42da-8685-d639d6ca4073

雑に要約すると、ハラリはイスラエルとパレスチナはお互いに「相手から殲滅させられる」という合理的(筋の通った)恐怖を抱いていて、「殲滅されないように、こちらから殲滅してやる」と思っているのが現在の状況である。皆が住むのに十分な土地があるので、殲滅されるという恐怖と殲滅してやるという衝動を解除して、一緒に住んでいくしか、解決方法はない。

正当な恐怖であり、パラノイアではない、とハラリはいう。彼我の軍事力の差はハラリもわかっていて、ハマスにイスラエルを殲滅する力はないと言いながら、しかし「殲滅させられるかも」という恐怖は合理的だと言い切ってしまう背景には、ユダヤ人がどのような扱いを、特に中東地域で、受けてきたかがあるかだろう。

で、そのようなハラリの立場を踏まえて、ホモデウスの未来像はユートピアなのかディストピアなのか。ホモデウスの誕生が不均衡なもの、偏りをもったものであれば、それはディストピアだろう。パレスチナでのイスラエルの占領政策のように、ポスト/ヒューマンの分割線「/」は物理的な壁として現出するのは、確実だから。

⑥ディストピアを乗り越える希望はあるのか

こちらも、フロアからの質問だった。現代がディストピア的である、というのはよく指摘されることだ。(ディストピアが歴史的である、ということは確認済みだが。)現代のディストピア性は、突き詰めていけば、「資源の再分配」がうまくいきそうにないからだろう。地球規模でみれば、気候変動。日本というローカルな場所でみれば、少子高齢化(社会福祉の増大)。監視ディストピアを身近に感じるならば、ウェブ/SNS上にしみでた自分のイメージ(情報的断片)が、自分ではコントロールできなくなっている、という実感に基づく不安がある。このあたりに、現代をディストピアと感じてしまう背景がある。

では、どうしたらよいのか? ひとつ私が問うたのは、(今更感あるかもしれないが)「階級なき政治は可能か?」であった。「人間にとって労働は大事である」という主張と地続きである。階級的連帯、そうまでいかなくても階級における労働者としてのアイデンティティ獲得は、間違いなく大事だろう。それを妨げ、労働者たちを「個人」へと分断してきたのが、これまでの社会であるし、大きな潮流は不可逆的に個人化を進めていくだろう。だって、たいていの人は「自由」が好きだから。その自由がウェブという世界と接続された時、個人の無力さが際立つようになったのだろう。

ハッシュタグで属性が切り分けられ、切り出された要素だけで離合集散するのではなく、ハッシュタグとハッシュタグをつなく「人間的隙間」を物語で埋めていこうとするのが、必要になる。どんな物語か? が難しい。しかし、大きな物語ではないだろう。小さな物語でもなく。地に足のついた、声の届く範囲に届く物語、なのではないか。

SF評論家として、「ディストピアにはテクノロジーを!」と言うのを期待されたのかもしれない。しかし、SFが描くのはテクノロジーの両義性である。「誰かのユートピアは誰かのディストピア」であるわけだが、ユートピアとディストピアを裏表に貼り付けるのはテクノロジーである。かつてインターネットは世界の外部であった。しかし、今やインターネットは世界になり、インターネットの外部からでることはできなくなった。あらゆるものがウェブに吸収され、ウェブに吸収されるということは数値化され、比較され、「インプレッション」に変換される世界で、テクノロジーの両義性を注視すること。が、(SF評論家に)できることではなかろうか。

以上がトークイベント1人反省会である。

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