『ポストヒューマン宣言』についての自ツイートまとめ(その2)

最近のツイートから自著『ポストヒューマン宣言』(小鳥遊書房)の内容に関わるものをまとめました。(内容紹介&販促です)

全体の話

SF評論本を書こうと思って作業を始めた時は三部構成だった。ポストヒューマン、ディストピア、言語。書き始めたら第一部のポストヒューマンだけで1冊の本になったのだが、ディストピアSFや言語SFについて書いてみたい(書いてきた)。完結していないがアニメ「PSYCHO-PASS」についても書きたい。

4章について

行動経済学が科学なのかという問い返しがあるようだ。科学かどうかはこれから検証されるだろうが、人間の認知の癖を認識するというメタな視点はポストヒューマンに続く道ではないか。グレッグ・イーガンのテーマだ。人間の非合理な振る舞いが合理的に理解・介入される時そこにヒューマンはいるのか。

5章について

『マトリックス』3部作を①そもそも脱身体化とは何か、②仮想現実世界でどうしてカンフーアクションをやるのか、③マトリックスの世界から目覚める必然性はあるのかの3点から論じた(『ポストヒューマン宣言』5章)。4作目がResurrectionsなのは『エイリアン4』を連想させる。

6章について

AIも人間もディスプレイ上にフラットに並置されれば、AIと人間は友好的または敵対的な交流を通していずれ融合していく。人間対AIというプロットのSF作品は多いが、本当の対立軸は〈人間+AI〉と〈人間〉なのだ。『ポストヒューマン宣言』169

梁英聖『レイシズムとは何か』を読むとレイシズムとナショナリズムが不可分であることが分かる。AI否定論とヒューマニズムもまた不可分である可能性がある。「人間とは何か」という本質的な定義は「××は人間ではない」という(…)言葉遣いによって支えられている。『ポストヒューマン宣言』168

7章について

『ポストヒューマン宣言』で、身体を機械で置き換えようとする野心の程度=射程を〈サイボーグ化のまなざし〉と名付けた。サイボーグというと身体のみが機械化の対象に思えるが、マキャフリー『歌う船』は船を自分の身体として受け入れるために、精神すら〈サイボーグ化のまなざし〉に射抜かれる。

ポストヒューマンで調べると脳や体に機械やコンピューターを埋め込む研究が見つかる。テクノロジーによる身体拡張はSFが描き続けたヴィジョンだが、現実に実践するには私たちの精神への介入も必要ではないか。私たちの意識は今の身体に深く根ざしていて身体拡張のみは精神に不調をきたす可能性がある。

6章ではAI映画、7章ではサイボーグとターミネーターを論じたが、結論は相似形。AIであれマシーンであれ人間と接する部分(インターフェース)は存在し、接触面は安定せず、ナラティブが展開していくにつれてヒューマンに変容を迫る。書きながらハラウェイ「サイボーグ宣言」のイメージを思い浮かべた。

人工知能やロボットの話をすると「いつ人類を攻撃するのか」という教科書的な不安を聞くことがある(実は『ターミネーター』のビジュアルは教科書にすら載っている)。人間vsロボット、人間vs人工知能の対立図式は確かに理解しやすいが、この図式はもう古いのでは?『ポストヒューマン宣言』6章7章

9章について

権力は身体という物質的なものを通じて・ものに対して行使する・される。身体を変えることで権力を変えることは可能だが、権力そのものはなくならない。権力は関係性「も」もつ。権力のもつおの言語的な性質をジェンダーの観点から徹底的に突き詰めたのが松田青子『持続可能な魂の利用』だと思う。

産む性ではない男性は生命から疎外されていると村田基『フェミニズムの帝国』はいうが、小野美由紀「ピュア」は産む性とされる女性ですら生命から疎外されていないかと問う。田中兆子『徴産制』は男性も産める社会で、身体を媒介する権力が身体の改変により変化する。(『ポストヒューマン宣言』9章)

ルグィン『闇の左手』に登場する性別のない人類。惑星入植時に争いをなくすために性別をなくしたのではという仮説が提示される。権力や暴力(性)が生物的にビルトインされている可能性。『ポストヒューマン宣言』でティプトリーと対比したルグィンだが九章のフェミニスト・ユートピアにも通じる。

『ポストヒューマン宣言』は古典的名作から最近の日本SFまで扱う。ティプトリー「接続された女」は何度読んでもスゴい。広告が禁止された未来、インフルエンサーが登場。そのインフルエンサーの身体を一から作り、中の精神はリモートで操ってしまおうという話。あまりに現代的な半世紀前の作品。

10章について

ポストヒューマンになったものがヒューマン時代を懐古することはどのような言葉を使えば可能なのか? ポストヒューマンとヒューマンの間にある断絶の表象(不)可能生を〈ポストヒューマンのパラドックス〉と名付けたが、伊藤計劃『ハーモニー』はetmlというメタ言語を開発しパラドックスに挑む。

大学でソシュールと記号論を学んだあと「赤は赤でないものとの差異によってのみ定義される」と言ったら、理工学部の友人から「その定義はコストがかかる(大意)」と言われた。モノとして捉えるならばそうなのだろう。言語は果たしてモノなのだろうか? 実体であり・実体でないのが言語ではないか。


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