経済リベラルと政治リベラル――吉田徹『アフター・リベラル』(講談社現代新書)

リベラリズムとはなにか? という問いはとても難しい。リベラリズムは、時代や国、論者によって指す内実が異なるからだ。リバティ(自由)→リベラリズム(自由主義)と派生したのは確かだが、では「何からの自由なのか?」と問われる。さらに「からの自由」は消極的自由だが、「への自由」という積極的自由にもさらに腑分けされる。

筆者はリベラリズムを5つに分類する。その中で良く出てくるのが「経済リベラリズム」と「政治リベラリズム」だ。そもそもは王権に対する市民(ブルジョワジー)の自由が(革命などを通じて)求められた。自由は所有権と市場に表現された。産業革命が進むと、経済動が活発になり、経済リベラリズム(自由市場)が活発になる。しかし、自由な市場は、富の偏在や抑圧・搾取の温床となる。いきすぎた経済リベラリズムを抑制するものとして政治リベラリズム(平等)が求められる。政治リベラリズムは政府による介入(徴税、再分配、規制)として表現される。

経済リベラリズムと政治リベラリズムは、社会の両輪として機能していた。しかし、産業構造の変化や、階級の解体・個人主義の台頭などにより、社会民主主義政党(政治リベラリズム)は経済的にリベラル化し、保守政党は社会政策のリベラル化をしていった。筆者はこれを「リベラル・コンセンサス」と呼び、かつてあった保守vs左派が、現在は権威主義vsリベラル(経済+政治)に変化したという。

おそらく、経済リベラルを原理主義的につきつめたのがリバタリアニズムと言えるだろう。ややこしいのは、同じリベラリズムを源流とする社会民主的なリベラリズムと自由至上主義のリバタリアニズムが、ともに「リベラル」としてくくられる現状にある。左派リベラル(社会民主主義的なリベラリズム)からはネオリベ(新自由主義)として批判される要素のいくつかは、リバタリアニズム(自由市場・最小国家・社会的寛容)の、「自由市場」「最小国家」と重なる。

本書が問いかける一番大きな問題だと私が感じたのは、「個人主義の時代に個人の問題を社会は解決することができるのか?」である。従来の階級・政党的が対立軸が社会・政治から消失しつつある現在、個人の問題を政治がくみ上げる回路はないように思える。それが先日の都議選でも可視化されたような「既存政党への不信感」の原因でもある。個人が個人のまま連帯することは、個人の定義を考えると、不可能ではないのか? 権威主義vsリベラルの対立軸で、権威主義に引き寄せられるのは、経済的な困窮者(市場からの脱落者)や多様性への反発(左派リベラルに包摂されない者)だと筆者は指摘している。(階級がアイデンティティになりえない、ということだろう) しかし、サイバーリバタリアンと言ってよいイーロン・マスクが権威主義的政治家と言ってよいドナルド・トランプと親密なのは、権威主義とリベラルの「悪魔合体」が起こりつつある、と言うことなのだろうか。

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