デジタル・サバンナの部族主義ーー綿野恵太『「逆張り」の研究』筑摩書房

逆張りとは? もともとは株取引の用語で、相場の流れに逆らって売買する手法のこと。皆と同じ主流に棹さすのではなく、反主流に(株だけではない)「投資」することで、反主流が主流になる未来で報酬を得られる、と考える。筆者は、とある新聞から「逆張り論者」として原稿依頼を受け、結局は断ったが、以来、「逆張り」とは何かを考えるようになった、という。筆者の『「差別はいけない」とみんないうけれど。』という本を私は読んだことがあるが、この本をふくめ筆者の主張はしばしば「逆張り」や「どっちもどっち」「冷笑主義」などと批判されたようなのだ。筆者は、そもそもの逆張りの定義(瀧本哲史)から掘り起こし、ここ10年で「逆張り」が一種の罵倒語として使われるようになった経緯をたどっていく。「研究」とあるが、語り口はエッセイ。ただし、洞察は深く、やはり「研究」といえる。筆者が実際に見聞きしたことも紹介されていて、私と世代が近いこともあり、懐かしく/共感して読むところもあった。

現代的な逆張りとは、差異化のメタゲームである。ただし、このゲームは自分が相手より有利に立つために(マウントをとるために)始めるので、相手の意見を相対化しつつ、自分の意見を絶対化するような視線が織り込まれる。具体的には「あなたの意見も私の意見も相対的なものである、ことを私は認識しています」といったように。ゲームを有利に進めるには、始めと終わりを自分で決めたい。メタゲームはその性質上、ほうっておくとどこまでもメタになっていくので、たとえば「それってあなたの感想ですよね」「エビデンスあるんですか」といえば、メタゲームは終わる(ように見える)。自分の意見も「自分の感想」であり、自分の出すエビデンスも、エビデンスっぽく見えるだけで現実の各種検証に耐えられないものだとしても。だいいち、このセリフで有名になった論破王氏は、人々の感想の代弁者として参照されている可能性が高い。つまりロジックとエビデンスがあったとしても、誰もそれを気にしていないのだ。大事なのはメタゲームを始める/終えることができる権力を持っていることで、これは私たちが「評判」(インフルエンス)という形でその人に保証している。

メタゲームの対極にエビデンス(アルゴリズム、と言ってもいいかもしれない)と身体(気持ち/傷つき)がある、と筆者は言う。論破王は両方駆使している。いわゆるリベラル陣営がアイデンティティ・ポリティクスを主張し、「何を言ったか」以上に「誰か言ったか」が注目されるようになったのは、メタゲームへの牽制となっている。もっとも、身体・共感ベースのアイデンティティ・ポリティクスがまた別の問題を引き起こしているのは、周知の通り(荒木優太の言う「終わりなきマイクロアグレッション」や、以前紹介した「何を文化盗用とするか問題」など)。先日、読んだユリア・エブナー『ゴーイング・ダーク』では、白人至上主義者が自分の「白人性」を証明するためにDNA検査をしたところ、非白人の要素が検出されたのだが、「遺伝子検査もでっちあげだ」と断言していた。身体が主張の根拠として全面に押し出されても、果たして「身体」とは何か、と問わねばなるない。アルゴリズムも同様である。

SNSふくむウェブのプラットフォームが、私たち人間の脳の構造とハマって、ウェブ上で部族主義が過激化(加速化)しているのでは、と筆者は言う。その通りなのだろう。Twitterが始まったころと、今では、だいぶ景色がことなる。SNSには「いま」しかなく、同じ構造の「炎上/論争」が無限ループのように繰り返されている。自分と意見を異にする相手を、シニカルに(冷笑主義的に)批判する。相手の論のここがおかしい、と指摘するのではなく、「2コマ漫画」のように相手の非一貫性を抽出し、相手が私利私欲のためにそう主張していると見なす。結局は、味方と敵の陣取り合戦(影響力の及ぼしあい)で、そのために最適化された戦術は右派左派とわず採用する。リベラルもアンチ・リベラルも、方向性は反対だが、使っている語彙・戦術は似通ってくる。

おそらく建設てきな議論をするには、自分でありながら、自分でない、という矛盾した状態を(どこかの瞬間で)とらないとダメなのだろう。自分であるというのは、自分の身体を根拠として自分の気持ちを伝えることだ。自分でないというのは、自分の身体(性)をカッコに入れ抽象化して、自分ではない人=相手の共感を期待して投げることだ。筆者はシンパシーとエンパシーの違いを説明しているが、私が言いたいのもそれに近い。ネットというデジタル・サバンナで、原始時代から変わらない脳を使って、私たちにそれができるかどうか。

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