タコから考える知性――池田譲『タコの知性 その感覚と思考』(朝日新書)

イカの研究者であり、最近はタコも研究している琉球大学の池田譲によるタコ研究の最新動向を紹介した本書。読めば、タコがどれほど知的な生物なのか知って驚くだろう。私もここまでタコが知的だとは思わなかった。

しかし、タコの知性を考える上で大事なのは、「知性とは何か?」というそもそもの話である。なぜタコの知性についてSF評論を主に書いている私が興味を持ったかといえは、タコ=エイリアンと見立てたときに、どのようにファースト・コンタクトが成立するのか想像するヒントになるのではないか、という点につきる。確かにタコは見た目がエイリアンっぽい。というか、タコ型宇宙人なんていうものが(特に西洋において)夢想されてきた歴史を鑑みるに、なじみのない人たちにとってはタコはまさにエイリアンなのだろう。いまだにクリーチャー系のSF映画をみるとタコ・イカよろしく触手をうねうねと飛ばして、ねばねばの粘液を放出する「おなじみ」のエイリアン造形を目にするが、タコ・イカからのインスピレーションもあると思える。

タコの(もっといえば広く)知性を考えるのに本書で紹介されているのは、①学習と②感覚世界である。

①学習とは経験により行動が変わり、そして変化した行動が維持されることである。オペラント条件付けをやると、マダコは大きさ、形、色を識別することができるようになる。頭いいな…。さらに、デモンストレーターとオブザーバーに分けて実験をすると、デモンストレーターのやったことを観察・学習して、同様の振る舞いをオブザーバーがすることも確認された。まさに「観察学習」である。これはヒトであれば当然と思われるが、逆にいうとヒト以外でこの観察学習ができる動物(特に無脊椎動物)はほとんどいない。タコすごい。また、同種他個体を観察して自分の行動にフィードバックすることから、タコには社会性があるとも想定される。これは「タコつぼ」というマダコ漁のイメージから作られる「タコは単独性の生物」という固定観念とも異なる、新しい知見である。さらに筆者は、タコに麻薬を与えると社交的になるという研究や、鏡を見せて鏡像を自己と認識できるのかという「鏡像自己認知」の実験も報告している。(鏡像自己認知は、今のところタコには見られていないようであるが)

①の学習の前提となるのが②感覚世界である。学習をするにはそもそも外部世界を認識し、脳に神経信号として刺激をインプットする必要がある。タコは世界をどのように認識しているのだろうか? タコの目は(人間とは違い網膜は反転していないが)かなり人間に近い形で世界を見ているようだ。色覚は欠いているが、偏光は認識できている。対象物に興味を抱くこともある。視覚以上に重要な働きをするのが触覚だ。8本の足は吸盤に覆われ、この吸盤は吸着だけではなくセンサー=触覚の働きももつ。神経細胞はタコ全体っで5億個あるが、そのうち3億個は腕の中心を走る。さらにすべての情報が脳で処理されるわけではない。腕の末梢神経にはプログラムがあり、腕の神経細胞で伝達される情報は、腕で処理される。(筆者はこの脳と腕の分業を、徳川幕府の江戸と各藩の関係になぞらえている。脳=中央集権的ではないのだ。)

興味深いのは、タコは視覚情報を触覚情報で補い、見ただけでは覚えられないものも、腕を伸ばして触ることで対象を感知することができるのだ。私たちヒトはともすれば情報収集を視覚に頼りがちだが(このように本を読み、レビューを文字で書いて、端末のディスプレイ越しに読むのもすべて視覚情報だ)、タコはともすれば視覚よりも触覚が優位なのだ。筆者はタコは触らないと覚えられないのではないかと推定し、「異なる感覚が交差するように対象を感知する」=クロスモーダルに着目する。

人間が考える知性はどうしても人間的なものになる。人間的なものとは人間という「物理的入れ物」+「意識という中身」に最適化されている、と言う意味だ。道具があったときに、それを手で操作する動物と足で操作する動物と、あるいは鼻やしっぽで操作する動物とでは、どれが一番「知性」が高いのだろうか? 人間的な知性であれば「手」と考えてしまうが、果たしてそうなのだろうか? というのが知性の個別性/普遍性の問題である。生き物にはその生き物固有の世界認識(感覚世界)があり、生き物固有の体をしているわけで、その固有性抜きに知性を考えることは、知性の本質的な要素、世界を感知し・学習し・世界に向けて働きかけることを見落としてしまうのではないか。SFがずっと考えてきた人間とは異質=エイリアンの存在の知性をどう理解するのか問題をここにも見出せるのだ。(2021年1月3日)

追記(2024年7月29日)

感覚抜きの思考も、思考抜きの感覚もない。入れ物抜きの中身も、中身抜きの入れ物もない。「知性」だけを単独で取り出すことは不可能。取り出しているようで、「取り出し方」が文脈依存的であることが多い。チューリングテストも、人間とコンピューターの知性比べであるが、テストではディスプレイ上の文字で判断する。ということは、視覚的な判断だし、もっといえばコンピューターが操作できることや文字を読めることも前提されている。

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