人情湖を名づけた○○○○さんの証言

東京都奥多摩市××××――
鬱蒼、しげる野生の植生物にまじって、沼のような湖がひっそりとある。湖に名をつけたのは、近くに住んでいる○○○○さんだった。

名は、にんじょうこ。
人情の湖と書き、人情湖。

奥多摩は海から近いわけではないが、○○○○さんは貿易船の乗組員を仕事としているから、一年の半分ほどは大型船に乗っている。運搬する貨物とともに海上生活を送っている。大型の仕事が一区切りすると、奥多摩にある実家に帰ってきて、早くに逝ってしまった両親もおらず、きょうだいもいない、自分ひとりきりになった主屋に戻る。残り半分の時間は陸で過ごす。

○○○○さんのところに、ある女が現われたのは、ある歳の暮れの寒さの厳しい朝だったという。
最初、雪女かと思ったという。

肌がまっしろく、しかし顔立ちはどうみても日本人のそれで、黒目がぱっちりして睫毛がながかった。美しい、幼げな表情の似合う、身長170センチは超えているだろう長身痩躯の美女であった。彼女はうすよごれた釣り人のような格好をしていた。

「――――」
彼女は、しゃべれないらしい。
○○○○さんは、身ぶり手ぶりでなにやら伝えようとする彼女に、すぐそうと察した。仕事柄、各地に回遊するので、あらゆる国の複雑な事情ある人々は目にしてきた。

彼女は、手にさげている海の幸を、○○○○さんにあげた。○○○○さんは、夜も遅くに女がこんな場所にいて、しかも彼女を家にあげてしまうと、今度は彼女に帰るそぶりがまったくない。なかば、してやられたかたちで、彼女との同棲がはじまった。
急に、赤の他人と生活することになった○○○○さんであるが、不快ではなかった、という。

彼女は、浅く、浅瀬のように笑うことが多かった。○○○○さんが海に車を走らせるとついてきて、しかし船には乗らず、見送る。半年ほどで帰ってくると、預けてある車の前にどうしてか彼女は待っている。彼女を乗せて、陸の山へと帰っていく。その時期、これが○○○○さんの生活になっていた。

終わりは、唐突に訪れた。

ある明け方。

なにやら気配を感じて○○○○さんが目を開けると、布団の真上に影がさし、ガラスの破片を手にしている彼女が覆い被さってきていたという。彼女は涙を流し、声のない悲鳴をあげて、なにやら嘆き悲しんで、○○○○さんの喉首に当てていたガラスのナイフを自分の手で結局は投げ捨ててしまった。
○○○○さんの制止もきかず、満月の夜の下へと飛び出して、外へ出ると一直線に湖を目指して、そこへ――

彼女は、身投げした。湖と呼ばれてはいるが、沼のようなそこへ。

彼女は、浮かんでこなかった。
底なし沼というわけでもない。○○○○さんは、寝間着のまま湖に分けいって泥だらけになりながら、彼女を手探りでさぐった。しかし見つからない。どこを触っても、彼女の躯には届かない。○○○○さんは、そのとき、足元からぽこぽこした泡が噴いているのを、見た、という。

「あの方、きっと人魚だったんだよ。女っ気がない俺になんでついてきたのか、なんで俺を見初めたのか、ぜんぜんわからんが。でも、事情はあったんだろう。あの方は俺を殺そうとしたけど、それができなかった。だから海の泡になるしかなかったんだろう。ここにあるのは湖か、あるいは沼だから、あの方が泡になって溶けられる場所もあそこしかなかったんだ。湖、もしくは沼の泡になっちまったんだよ」

自然にまぎれてひっそりと広がる、ちいさな沼地。
湖のようで泥の多いそこは沼のよう。

○○○○さんは、海外の人魚姫のお話をもじって、でもここは日本だから、ふたりっきりで生活した数年間の思い出をこめて、そこを『人情湖』と名づけた。そんな名前で市に申請したという。



地図を刷新するにあたって、東京都奥多摩市××××地区担当となった、若い公務員は、○○○○さんの話をメモしながら、この話は知り合いの民俗学者のところに持って行くことに決めた。
新たな地図の新たな湖として、『人情湖』は無事に登録された。○○○○さんから、お役所に、お礼の手紙がだされた。

「人情湖? ほお、そんな体験したやつが現代にいるんだ。そりゃ、女に会ってみたかった。しかし人情の湖ねぇ……。よっぽど、義理堅い男なんだろうな? だから人魚の女は惚れたし殺せなかったのか」
「先生、この話、真実だとおもうんですか?」
「民俗学者は、この手の話は、まずはぜんぶほんとに起こったものとして、読み解くもんだよ。神話も逸話も伝説もみんなそうやって読むんだよ」

公務員は、民俗学者にお礼を告げて去りながら、自分が認可をくだした湖のことを思った。本当に人魚の泡が溶けている湖あるいは沼なのか。

「……人魚の肉って……、不老不死って話だよな……」

後日、湖あるいは沼の水をコップ一杯分、ためしに飲んでみたところ、普通にとてもまずいからくちから噴き出したし、ついでに腹も壊したし、公務員はやっぱり人魚伝説なんてウソっぱちじゃ、と、地図に記載された湖の名を見るたびに、思うようになった。
飲んでみたことは、彼だけの秘密なので、湖あるいは沼は相変わらず、今日も奥多摩の奥地にてひっそりと『人情湖』として、その沼色の湖面に朝日を宿し、あるいは吸い込んで、ところどころに白い光の反射をつけていた。

○○○○さんが証言したような、ぽこぽこした泡は、ついぞ見ることはできなかった。



END.

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