海の家のマーメイドプリンセス

人魚姫が恋をする。なにも、嵐の日に難破船から救った王子に恋をして、とか、王子のためにすべてを失って泡になるとか、そんな命がけの恋愛だけとはかぎらない。

かのお姫さまの場合は、近所の浅瀬がいつのまにやら人間たちの大衆海水浴場となっていた。
上半身は人間とそっくりに創造されている人魚姫である。ときおり、人間たちにまじって、人間のふりをして上半身だけを海から出して遊びにまじることがあった。ただの気晴らし、たんなる気まぐれだ。人間たちは、楽しそうに声をあげて海やら波やらで遊んでいるから、人魚姫にしてもめずらしい生きものなのだった。

そして彼女は、今日もビク、として砂のうえの一軒家を見つめた。子どもたちのビニールボール遊びになんとなく混じっていたところだ。
「は~い、焼きトウモロコシ! かき氷、おいしいよー!」
首からなにやらベルトをさげて箱を抱えて、ひとりのオスがなにやら食べ物を売り歩いている。日焼けして肌が赤黒くなっていて、筋肉はふとく盛り上がっていて、パンツの下から伸びる二本の足はとっても魅力的だ。
歯がしろくて、いつもにこにことして、自分のもとに駆けつけるご老人、お父さん、お母さん、お姉さんお兄さん子どもたちに食べ物を与えていた。かわりにお金らしきものを受け取る。

いつしか彼女は、海水浴場に来るたびに、海の家のお兄さんを目で追うようになった。
いつしか彼女は、人間の足が欲しい、と願うようになった。

「大魔女さま。お願いです、あたしを人間にしてください。どうしても会いたいひとがいるんです」
「おやまあ、人魚姫。あたいのとこにくるなんざ、やきがまわったね。かまわないよ? でも代わりに、あんたの歌声でももらおうか」

人魚姫にとって、歌声とは、いちばんの娯楽だ。たまに人間の船乗りに効かせるとあまりの美声に彼らがうとうとして船を座礁させるなどして、魔性の唄声などとも呼ばれている。
彼女は、うなずいた。

「はい。代わりに、あたしに、人間の足を――」
「よぅし。取引、成立!」

さて、ある夕暮れの海水浴場で、今日の営業を終了して店じまいをはじめる海の家があった。
海で拾った、ガサガサに錆び付いた五百円玉を手にして、裸の少女がおぼつかない足どりで海の家を目指した。お兄さんは、海の家ののぼりを片付けていた。素っ裸の少女をひとめみて言葉を失った。

なんせ、魔法でできたように美人でスタイルがよくって、ふわふわの髪がスポンジのように全身にまとわりついていて、絵画のようだった。
彼女は錆びた五百円玉を差し出して、お兄さんに笑いかける。声はないが、ん、んん、となんらかの応答をもとめてコインを突きつける。お兄さんは、ややして、今日の営業が終わったことを告げた。

「あんた、ここはヌーディストビーチじゃないぞ」
「――――」
にこにことして全裸の美少女はお兄さんの周りをくるくると動きまわる。お兄さんは、そんな彼女の痴態と美しさに目を奪われる。

人魚姫は知らないが、海の魔女は知ってはいたが、恋とはタイミングだ。

夕べの海岸には人の気配がなくって、海の家も畳んでしまっていて、お兄さんに売るものはなかった。人魚姫はあやしげな五百円玉を宝物のようにしてお兄さんに両手で差し伸べる。そして目をあわせて、にこり、にこにこ、絵画に描かれたヴィーナスのように微笑む。

男女に会話はとぼしく、とりあえず、とお兄さんは、畳んだはずの海の家のドアを開けた。
「なかにはいりなよ。ここ、ヌーディストビーチじゃないんだから」
「?」
人魚姫は、にこにこしながら、しかし誘われるがままに海の家に入った。お兄さんも入った。ドアがばたんと閉められた。

そして海の家は、男女の愛の巣に一晩だけ変身した。男女の愛に言葉は要らず、しかし肉体は要るのだと、人魚姫は初めて知った。夜が明けるころになると、人魚姫は海の家のお兄さんに惜しげも無くキスをしながら感謝した。
名残惜しそうなお兄さんが、海の家から飛び出してきたが、人魚姫はもはや夢を果たした。

声もなく、別れの挨拶すらなく、名前も知らずに男女が別れた。海の家のお兄さんは彼女が海にざぶんと帰るのを目撃して途方にくれた。一生涯の恋人だったはずのヴィーナスが海に消えるのを見送ってしまった。
人魚姫は、結ばれて得た大事な子種を育てるために、海の底へと深く深く潜っていった。

この恋は成就して1人と1匹は結ばれたが、人魚姫が数年後、卵から育てた子どもたちと一緒にひさしぶりに海の家を目指して大衆浴場に顔を出してみると、もう、海の家のお兄さんは別の人に入れ代わっていた。
その後、ふたたび、あのお兄さんに会うことは二度となかった。

これが悲恋であるのか、ハッピーエンドであるのかは、難しいところだ。

成り行きをすべて魔法の水晶から覗き見していた海の大魔女は、けっ、と、つばを吐きはした。海の大魔女は、結婚やら子どもを得るやら、なにやら得て終わるような物語は、ぜんぶ嫌いなのである。



END.

読んでいただきありがとうございます。練習の励みにしてます。