見出し画像

「わかってもらえない」という経験の尊さ

伝えたいことを言葉にするのが元々得意ではない。だからこうやって「書く」ことで自分の気持ちを落とし込む作業をしている。
自分にとっての「感じるより考えろ!」の対象って、湧き上がる感情をどういう言葉で表現するのが伝わるのかについてだけだったことに気づく。

昔から伝わらなくてもどかしい思いをすることが多かった。

子供の頃、父親にずっと言われていた。
「お前はいつも感情的になるから言いたいことのひとつも理解できない。」と。
(「頭ごなしに否定してくるからじゃない!」と心の中で悪態ついていたのはここだけの秘密。)

学校や友人との間でも、なぜだか私の意見については通らないとか聞いてもらえないとか適当に流されるとか、そんな経験をたくさんしてきた。
(変なこと言ってたわけじゃないと思うんだけど、「変わってる」と昔から言われていたからそこは自信がない。)

話していてもうまく伝わらないしそもそも聞く耳を持ってもらえない。悔しい思いをたくさんしてきた。もはや伝え方が下手というよりも私だから聞いてくれなかっただけのような気がするけど。
とにかく、そんな状況だから別の方法で試してみた。それが「書く」ということ。

書くのは自由だ。ワクワクする。絵描きが真っ白のキャンバスに絵の具をのせるように好きにできる。

ブログを始める時に
「誰にも私のことなど共感されないだろう。今までだってされたことないのだから。それならもういっそのこと気楽な気持ちでふりきってさらけ出してみよう。」
と決めた。

そんな始まりだったのに、あらびっくり。
思いや生き方に賛同してくれる人が増えたのだ。

驚いた。
そして嬉しかった。
あ、私ってたくさんの人に受け入れてもらえるんだって。

わかってくれる人がいる。
それだけでなくて、誰かの心を揺さぶったり寄り添えることもある。

とはいえ、全てを共感してもらうことは難しい。

だから
「えっと、今回のことはちょっとわかってもらえないと思うんですけど、でも楽しんでもらえるように書いてみたんで、よかったら読んでいってやってくださいね。」
という姿勢でいつも書いている。

私は私だし、読んでくれる人にはその人の価値観や思いがあるから。
でもそうやっていい意味で投げやりなのって、わかってもらえなかった経験が生きているのだと思う。
自信のなさとかではなくて、「あなたと私は違うものね」というわかりみ。

わかってもらいたいという気持ちを持たなくなって自由に書いていたら、わかってくれる人が増えたという不思議。

もう、あとは伸び伸びと自分の書きたいように表現するだけだ。

わかってもらうことで得るものもたくさんあるけど、それ以上にわかってもらえないことも私には必要だったんだなあ。

つくづく孤独と葛藤が幸せとセットになっている人生なのだなと我ながら呆れる。
まったく、最高かよ。

「書く」ことで食べていけるひとになるのが目標です♡ここにたどり着いたのも何かのご縁。わちゃわちゃしましょー!!!