瑞々しく熟れた桃_サガン『愛という名の孤独』ほか

サガンと江國香織が好きだ。
フランスと東京に生きる女流作家の共通点は、孤独だと思う。ふたりの血脈には孤独が流れている。

最近、サガンの『愛という名の孤独』と江國香織の『がらくた』を読んだ。
『がらくた』の文庫本の跋文に嶽本野ばらが寄せた、「十五歳のボーン・トゥー・ビィ」の文章は、綺麗に剥けた滑らかな桃のように、心地の良いものだった。

 「江國香織は普通なら少女の世界と対立したものとして提示すべき大人の世界とほうを否定せず─無論、肯定もせず─少女の前に置くのです。反抗して成長していく古めかしい弁証法はもはや成立していないというこの独自性はとても刺激的です」p338

この作品に登場する魅力的な人間はみな、「否定しない人間」として描かれている。どこまでも他者を他者として捉えている。一体にならない中立者で孤独な人間がいる。
狂気も欲も他者も拒絶せず、それでいてどこかでとことん冷めている。自分と目の前の相手、でしかない関係性は、ある意味極限に清らかで純真なものだ。

嶽本野ばらは、江國香織の作品を恋愛小説ではないと言った。主人公を取り巻く関係性のなかにたまたま恋愛と呼ばれる要素が組み込まれているだけで、その内実は、とことん自身の孤独と結びついている。燃えるような恋愛のなかで、静かな目が「私」を自由にさせようととらえて離さない。

サガンもしかり、『愛という名の孤独』のなかで、彼女はとことん理性的だ。全ての物事に適切な距離を持っている。

  自分の知性や記憶、心、好み、直感などの弱さを全て寄せ集めること、武器であるかのように…。そして「無」、つまり想像力が絶えず提供してくれる白紙に、それらが襲いかかるようにすること。p62

彼女たちは、どこまでも透徹した自己の中で孤独と自由を謳歌し、凍えるような孤独の甘さを享受するために他者の熱を求める。
冷えているほどに熱は痛みと愛しさを増し、純粋なカタルシスへと変貌する。

彼女たちの作品は、解放が根底にあるような気がする。呪いからの、人からの、己からの、社会規範からの、解放。だからとことん冷めていなければならないし、情熱的でなければならない。

成熟した子供のような、瑞々しく熟れた桃のような、そんな利己的な彼女たちの作品が、私は愛おしい。それが、エフェメラルなものだったとしても。

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