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元気でいてと
ぎゅっと抱きしめて
空港へ先を急ぐのさ

とは小沢健二の『僕らが旅を出る理由』の歌詞の一節だけれど、本当にそんな風に、お客さまを心の中で一人一人抱きしめながら見送って、今の店舗での最後の1週間が過ぎていった。

できる限りいつも通りに出迎えて、いつも通りにお見送りすると決めて、そうしてみるとほとんど泣きべそかいたりしないで毎日が淡々と過ぎていく。

一方で、カウンター越しのお客さまと何を話したらいいかわからない。これまでの話もしたくない、これから先の話もしたくない、だからイギリス人みたいに毎日天気の話をした。天気の話ってこんな時にだけ格好の話題になる。

料理で仕事をする(お金をいただく)ようになってから今年で10年になる。そのほとんどの期間を、出張料理であちこちにお邪魔して仕事をしていた。

毎回行商のように大きな荷物を背負って、3日も5日もかけてこしらえた料理を、人々が談話しながら30分くらいであっという間に食べてしまう姿に驚いたし、中央線の中でカレーを隣の車両まで流れるほどぶちまけて、完全に心が折れたこともある。(どう回収したのか全く記憶にない)

それでも長い期間、出張料理から離れたがらなかったのは、どこかに根を下ろし、毎日同じ場所でお客さまを出迎えることに自分が耐えられない気がしたからだ。

旅に出たくて仕方がなくなるんじゃないかみたいな、身軽さへの心配ではない。その逆だ。
私はいつだって重たくなりがちだから、根を下ろしたらそこから動けなくなるんじゃないかと漠然としたイメージだけで「店を持つなんて考えられない」と言い貫いてきた。

2018年の暮れ、様々なタイミングがほんの短い期間に重なって、三茶WORKという新しくできるコワーキングスペースの中に間借りする形で店を持つことになった。
(これはその場に居合わせた人しかわからないことなんだけど、本当に短い瞬間・瞬間に、トントントン、と重なったのだ!運命的に。)

そして2019年8月のこと。夏の盛りの蒸し暑い夜に、明日から通常オープンという日を前にして、友達の前で体育座りをして「不安に押しつぶされそうだ」と打ち明けた。
私は一番不安な時に体育座りをする根暗な癖があるのだけど、人前でやるのは、恋人を除けばあれが最初で最後だと思う。

どんな不安に押しつぶされそうなの?と友達が聞いた。
どんな不安なんだろう、と考えた。
それはやっぱり、どこかに根をおろすことで自分が重くなり過ぎて、身動きが取れなくなることへの不安だった。

いつもどこか、身軽でいたいと願っている私がいる。
これは体質的なもの。身体も心もむくみやすく、閉じやすく、満ち満ちと水のような感情に溺れやすい自分の個性を知ってからは、どこかに固定されないよう避けるのが養生だと思って生きてきた。

結果的に、このすばらしく風通しがよく、いい気が流れる場所で私の身体はむしろ喜んで根を張ることになる。
お店をオープンして半年でコロナ禍だったのも、今になって思えば神さまに「いいからそこにいなさい」と言ってもらった期間だったとさえ思う。

お客さまがプレゼントに添えた手紙にこう書いてくれた、
「雨の日も雪の日も風の日も晴れの日も、静香さんの料理を食べにわくわくしながらeatreat.に行きました。ユニークな三茶WORKの人たちとささやかな会話をし、笑って店を後にする帰り道はいつも温かい気持ちでいっぱいになりました」

本当は私は、朝起きた時に、窓を強い風が打ちつける風の日や、世界中が静まった真っ白な雪の日、Netflixを観て猫でも抱いていたくなるような大雨の日、わくわくしながらお店に向かったわけではない。

重い足取りでどうにかこうにかたどり着いた日もたくさんあったのだけれど、店のドアを開くと不思議と心が静かになった。
掃除をし、白湯を沸かして、会員さんやお客さまを出迎えられる今日という1日に深く感謝し、毎朝毎朝、誰もいない空間の中で首を垂れた。

店があるのはコワーキングの玄関口なので、混んでいるランチの営業中にもお客さまの背後を会員さんや運営メンバーが出入りする。

おつかれさま!
お、これから打ち合わせ?
行ってらっしゃい、頑張ってね
ただいま、大変だったよ

こんな言葉が飲食店に来るお客さまの周りで飛び交うことなんてそうそうない。実際に戸惑って、わけわからなくて来なくなった飲食店のお客さまもたくさんいると思う。

でも、今になって、店主の私にとって一番あたりまえで一番大切だったことは、この混沌とした、様々な種類の人への声かけだったと知る。
どこかに根を生やさず、身軽さが養生だと思って暮らしてきたけれど、手を伸ばせば触れられる距離に誰かがいてくれることに対して誰よりも自分が、心強さを感じるようになったのだ。

家庭はそれぞれに事情があるかもしれないけれど、大人になってそこを出ると東京の社会では、立場によって分断されていることが多い。
心無いおつかれさま、大変だね、はあっても、
おうちに迎えるような気持ちでいってらっしゃい、ただいま、
と言い合う場所は家を出たらあんまり見つかることはない。

店を構えた場所には幸いにも、生活の地続きのような一面があって、自然とただいま、おかえり、と言葉が出てくる「あたりまえ」があった。

それを先に言うのは店にいつもいつもいる私だったし、その「あたりまえ」が明日からなくなることが「さみしさの正体」なんだと、これを書いていて言葉になる。

家庭もそれぞれあるだろうと書いたけれど、家族もたまたま揃った組み合わせに過ぎない。トントン拍子で始まったこの3年間も、たまたまできた組み合わせで進んできて、それはこれからもアメーバのように変化していく。
生活はつづく。

風通しの良い場所には、誰が玄関に立っても多くの人が訪れる。
場は訪れる人で育ち、その場に居合わせる人は不確実な状況を体験していく中で、本当は自分がどのようにして生きていくべきなのか__それはどこかに根を張ったら身軽さから掛け離れるといった単純思考ではなく__知る。

「あたりまえ」を明日から、喪失する。
私は何かを喪失するたびに、ほんとうの言葉を発語する。
今しばらくは水のような感情に満ち満ちた非常に重い自分の身体を受け止めて、数ヶ月にわたって言葉をくだし続ける。

さみしさの正体を知ったら、もう次に根を張るのは怖くないねと、猫が膝の上で鳴いた。

(サムネイルを除いて、photography: Takuya Nagamine ※2019年8月open当時)


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