「オセロー」演出ノート

ギリシャ悲劇は、人々が生きていく上で回避できないようなあらゆる問題を、神の啓示や災いといった超越的な関係性の中で考える為の実践的な装置でした。シェイクスピアの書いた悲劇にも同様の機能をみることができますが、特筆すべきは、それが「人間にとって回避できないもの」に特化している点にあるというのが私の考えです。
『マクベス』は「暴力性と狂気性」、『ハムレット』は「内面の葛藤」、『リア王』は「老い」、『オセロー』は「嫉妬」といった、人間に備わっている簡単には揚棄できない性質のものをシェイクスピアは「自然」として捉え強靭な忍耐力で見つめ続けたのだと思います。世界中の演劇シーンに多大な影響を与えてきた「リアリズム」の起源もここにあると考え、本作では「人間」を深く考え直すという目論見からシェイクスピアの眼差しの有効利用を試みました。しかし、実際に行っていく創作の過程で、別の違和感も抱くようになりました。それはこれらが「余りに人間中心に考えられ過ぎているのではないか」という疑念です。
「西洋演劇に根強く横たわる病理とも言えるこの強固な構造」に亀裂を生み出す事ができるのか。創作を進める中でこのような命題が必然的に生まれてきました。数百年にわたって堆積されてきた思考の重なりは、西洋の重厚な建築物と同じく、破壊することも、揺らぎをあたえることも容易ではありません。そこには、懐疑的な視点を持って外部から壊そうとする批判的なアプローチではなく、むしろリアリズムを徹底していくことで内部から破綻を生み出していく方法で取り組むこと事が有効なのではないかと考えました。
 今回の『オセロー』には数多くの老人が登場します。老人たちはこれまで何度もオセローを演じ続けてきたという構成です。俳優たちは「繰り返し演じている老人を演じる」という入り組んだ構造の中で演技をすることになりますので、演じることを徹底すればするほど、統一的な人間像の構築ができず、破綻を生み出す事ができるのではないかと考えています。この試みはシェイクスピアによってシェイクスピアを超える、ことであり、その役割をアジアの人間が担う事ができるのか、という挑戦的な試みでもあります。強固に組み上げられた世界から新たな一歩を踏み出すこと、そして、それがどのように行われるのか。このような思考錯誤を可能にする時間と空間を生み出す事ができるのならば、演劇という考える装置にも価値があると言えるかもしれません。

M.M.S.T
百瀬友秀

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