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三千世界への旅 倭・ヤマト・日本7 「半島勢力」とアイデンティティの転換

新羅の女王


一方、ここに全く別の意味で興味深い女王の事例があります。

義江明子が『女帝の古代王権史』で紹介している、朝鮮・新羅の女王・善徳王(631年即位)、真徳王(善徳の妹、647年即位)です。倭国の飛鳥時代に新羅に女王がいたというのを僕は今回初めて知りました。

631年は『日本書紀』に出てくる最初の女王・女帝である用明の没後3年、647年は中大兄が蘇我蝦夷・入鹿一族を倒したクーデターの2年後、彼の母・斉明の時代です。

新羅で女王善徳・真徳が統治した6世紀中頃は、この国が高句麗・百済と激しい戦闘を続けていた時期ですから、こういう状況で女王が続いたというのは、注目に値すると義江明子は言います。戦争の時代の王は男でなければ務まらないといった概念が必ずしも正しくないことを証明する事柄だからです。

倭国でも斉明は百済再興のため朝鮮半島へ軍を送って唐・新羅連合軍と戦った時期の女王・女帝ですから、国の存亡がかかった戦争の時期に女王・女帝は倭国にもいたことになります。


唐の女帝


さらに、義江明子は善徳・真徳女王に関連して、中国史上唯一の女性皇帝である唐の武則天、いわゆる則天武后にも触れています。

則天武后は655年に唐の3代皇帝・高宗の皇后になり、病弱な高宗に並んで政治を行いましたが、高宗の死後帝位についた自分の息子である中宗・睿宗(えいそう)を退位させ、690年に自ら帝位についています。

中国の支配階級は、皇帝から官僚まで徹底した男性社会で、女性がトップに君臨するというのは本来あり得ない話です。

そんな国で武則天だけが皇帝になれたのは、彼女の並外れた能力と気概・意志力、使命感等々によるのでしょうが、義江明子は「中国史上唯一の女性皇帝出現の背景として、唐朝前期は北方遊牧世界の影響が強く、女性の活動が活発だったことが考えられる。隋も唐も、北魏の流れをくむ遊牧系の国家である。新王朝の形成期にあって国家体制が未成熟で、官僚機構からはずれた人材が政治を担い得たことも大きい(気賀澤安規「則天武后」)という説を紹介しています。

つまり、女王が機能する価値観は、古代中国の国家・政治の価値基準では邪道だったけれども、元々遊牧民だった北魏や隋・唐の価値観では必ずしもそうではなかったということです。

言い換えると、遊牧民・騎馬民族の社会では、女王を立てる慣習、少なくとも能力などの条件があれば女性でも王になることができたということのようです。

僕は遊牧民・騎馬民族系の女王について今回初めて知ったので、まだ考えがまとまらないのですが、これは当時の倭国の女王・女帝とも無関係ではないんじゃないかと思います。


高句麗・百済・新羅と倭の関係


飛鳥時代から奈良時代にかけて倭国・日本に女王・女帝が何人も出ていること、そして同時期に朝鮮半島の新羅にも女王がいたということには、この時代の倭国・日本を考える上で重要な鍵があるような気がします。

まず、飛鳥時代に新羅と倭国に女王がいたということには、どういう意味や可能性があるんでしょうか?

ひとつ考えられるのは、この時代に倭国の王朝を支配していた氏族・勢力が、半島の勢力と同じ遊牧民系のルーツを持っていたという可能性です。つまり、飛鳥時代に用明・推古・皇極/斉明・天智などの大王・天皇を輩出した勢力は、半島から渡ってきた勢力だったかもしれないということです。

その勢力は必ずしも新羅の王朝を支配していた勢力と同じとは限りません。


建国神話の共通点


武田幸男の『朝鮮史』によると、朝鮮半島の三国、高句麗や百済、新羅は、王族の始祖が天から降りてきた玉から生まれたという建国神話など、文化的に共通した部分が多く、同じルーツを持つと考えられているとのことです。

倭国・日本の神話では天から神々のひとりが降臨して、その3代目が神武天皇になったという感じで、玉ではなく人格神が直接降りてきたことになっていますが、倭の五王時代の王とされる応神が母の神功皇后から生まれたとき、皇后は天からさした光に感じて応神をみごもったにも関わらず、お腹に石を当てて帯で縛った状態で軍勢を率いて朝鮮半島にわたり、高句麗や百済、新羅を降参させて、帰国後九州で応神を産んだことになっています。

この神功皇后が抱いた石には、高句麗・百済・新羅の玉から王朝の始祖が生まれたという神話と通じるものがあると言われています。


古墳時代の半島と倭国


古墳時代に大陸や半島から様々な勢力が渡来して、新しい倭国の民族を形成したとしたら、高句麗・百済・新羅に由来する勢力が、この時期のどこかで渡ってきていたとしても不思議はありませんし、その中から倭国を支配する勢力が台頭した可能性もあります。

それはいつの時点で起きたのでしょうか?

前に「縄文」の記事で紹介したように、古墳時代に倭は朝鮮半島に軍を送って高句麗の広開土王の軍と戦っていますが、百済の南部には小型の前方後円墳がいくつも発見されていて、倭人の勢力が継続的な統治を百済の一部で行っていたことが推測されると言います。

半島南部の西側に位置する百済と、東側に位置する新羅の間には、伽耶・加羅など、百済・新羅よりさらに小さな国々があった地域があります。百済は漢の時代に馬韓、新羅は辰韓と呼ばれていましたが、伽耶・加羅などがあったのは漢時代に弁韓と呼ばれた地域です。

この地域は中国の歴史書に「任那」と呼ばれていたという記述があり、『日本書紀』には「任那日本府」と書かれていて、倭国の領土だったことがうかがわれるとされています。

これが事実だとすると、倭国側が半島に渡って植民地を築いたことになります。つまり海を渡って植民地を構築したのは、半島の勢力ではなく倭国側の勢力だったということです。

そうすると、古墳時代に中国大陸や朝鮮半島から様々な勢力が日本列島に渡ってきたという、遺伝子考古学的な証拠に基づく事実や、高句麗・百済・新羅と倭の建国神話に共通点があることとの間に矛盾が生じます。

これはどう考えればいいのでしょうか?


『日本書紀』の視点


この矛盾は、『日本書紀』という倭・ヤマト・日本の最初の正史が、必ずしも3世紀つまり邪馬台国の時代以降に日本列島で起きたこと、特に大陸や半島から様々な勢力が渡ってきて、古墳時代以降の新しい倭人・倭国が形成されたという事実を認めないか、むしろ積極的に隠そうとしていることから生じているように思えます。

『日本書紀』は古墳時代に大陸や半島から様々な勢力が渡ってきて、自分たちつまり新しい倭人や倭国を形成したということを知っていて隠そうとしたんでしょうか?

それとも古墳時代の最初の100年くらいで、様々な渡来勢力を統一したいわゆる倭の五王の時代には、政権を担った人たちは自分たちの多様性を認識していたでしょう。しかし彼らは文字で歴史を記録したり、政治的なコミュニケーションをとったりしなかったため、そうした歴史的な事実は後世に受け継がれませんでした。

そして、『日本書紀』では大和朝廷が紀元前から一貫した政権として継続しているように書かれていますが、4世紀から5世紀にかけての倭の五王の政権と、6世紀から仏教を導入したのちの大和朝廷につながる政権の間には断絶があり、新しい勢力による新しい価値観が支配するようになったため、倭の五王時代の政権が行ったこと、たとえば半島への侵攻や高句麗・百済・新羅との戦闘、半島南部の占領といったことは、新しい視点による別の価値観で『日本書紀』に記されるようになったと考えることができます。


多様性の認識からナショナリズムへ


倭の五王の政権が古墳時代の倭国統一を成し遂げ、国力を拡大して、朝鮮半島に侵攻したとき、当時の新しい倭人たちは必ずしも自分たちを、日本列島に最初から存在していた独自の民族だとは思っていなかったでしょう。大陸や半島から渡ってきた多様な勢力を統一したばかりだったからです。

半島への侵攻や高句麗・百済・新羅との戦闘も、異民族が支配する土地への侵略ではなく、新しい倭人の何割かがかつて暮らしていた、旧知の土地への侵攻だったでしょう。

弥生時代から鉄の産地だった半島の南部には、弥生時代の倭人も、半島の勢力も鉄を買いに来ていたと、中国の史料に書かれていますから、古墳時代の新しい倭人が半島に侵攻したのも鉄を得るためだったかもしれません。

倭の五王が南宋の政権に、自分たちの半島での権益を主張し、半島の支配権を高句麗ではなく倭国に認めてほしいと再三要請したのも、半島自体がそもそも自分たちの土地であるという認識があったと考えることもできます。

もちろん南宋への要請は、倭国側からの政治的な戦略に基づく意思表示ですから、建前上はあくまで自分たちは列島に昔から存在していた倭人であるという立場でなされていたでしょうが、それでも倭の五王の政権は、自分たちがそもそもどこからやってきたのかは知っていたでしょう。

しかし、そこから数百年経った飛鳥時代になると、倭国の政権は自分たちの国や民族を違った価値観でとらえるようになります。

自分たちは半島や大陸から渡ってきた様々な勢力の融合によって生まれたのではなく、もともとこの列島に存在した独自の民族だと考えるようになったのです。

この事実と異なる認識はなぜ生まれたのでしょうか?


グローバリゼーションの時代のアイデンティティ


『日本書紀』が成立した頃、つまり飛鳥時代末期から奈良時代にかけては、倭国・日本が、大国である中国・唐を中心とした東アジアのグローバリゼーションに取り込まれていく中で、日本という国家や民族のアイデンティティが初めて意識された時期でした。

倭人・ヤマト民族は中国や朝鮮半島の勢力とは無関係で、この民族はこの島国に元々存在し、天から降り立った神々の子孫つまりヤマト王権・大和朝廷によって統治されているというのが『日本書紀』の歴史観であり、国家・民族の定義です。

過去の歴史もこの歴史観によって書き換えられました。

古墳時代の五王も天孫降臨した聖なる王たちであり、半島に攻め込んで南部エリアに植民地を建設したのも、半島の勢力とは無関係の倭人だという視点で書かれています。

今の日本人にも自分たちを中国人や朝鮮・韓国人とは違う、独自の民族だと思いたい人たちがいて、彼らは『日本書紀』の視点や価値観から古代の歴史を見ようとしているようです。

一方、朝鮮・韓国の人たちには、かつての日本による植民地支配などから、日本に対する憎悪があり、倭国特有の前方後円墳が半島南部に存在することや、古墳時代に倭国が半島に植民地を築いていたことを認めたくない気持ちが存在するかもしれません。

ナショナリズムによる歴史的事実のフィクション化は、古代から現在まで常に各国・各民族の間で行われていますが、『日本書紀』は日本人のナショナリズムによる最初の事実のフィクション化だったと言えます。

そこから日本・日本人というアイデンティティが生まれたと考えることもできますが、そこには元々自分たちが大陸や半島から渡ってきた多様な勢力の融合隊であるという事実から、自分たちは神話の時代から日本列島に存在して、天から降り立った神々の子孫によって統治される特別な民族であるというフィクションへの転換、アイデンティティのすり替えがあったのです。

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