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三千世界への旅/アメリカ29   ボブ・ディランと反抗の時代2



左翼団体の束縛とディランの反発


映画『ノー・ディレクション・ホーム』の後半で印象的なのは、プロテストソングのスターになったディランが、ワシントン大行進があった年の暮れに左翼団体から賞を贈られ、受賞パーティーのスピーチでその団体のメンバーたちを「ハゲのおいぼれ」呼ばわりしたシーンです。

左翼団体といっても、「緊急市民的自由委員会」という、市民の自由を守る運動をしている団体だったようですから、その頃のディランとは親和性があったような気もしますが、彼は特定の組織や勢力に取り込まれて束縛されたり、表現や活動に政治的な意味づけをされたりするのが嫌だったようです。

自由のために活動する団体も、組織として行動することで、その中に仕組みやルールが生まれます。社会主義・共産主義が共産党という組織による革命で国家権力になったとき、解放の運動が拘束・支配に変わったように、組織的な政治・社会運動には人の自由を奪い、支配する機能があるのです。

人は組織を作って活動しないと社会を動かせないし、政府や企業と戦えませんから、人としての自由との兼ね合いは難しいものです。しかし、ディランの場合、個人の自由というより表現者、アーティストとしての自由を、政治的・社会的な組織や思想体系に束縛されるのが我慢できなかったんでしょう。

映画のインタビューでディランは「元々俺は社会派じゃない。アウトサイダーとしてニューヨークに出てきたが、そこでますますアウトサイダーになった」と語っています。


象徴詩の技法


ディランは初期の頃からウイリアム・ブレイクやランボーのように象徴的な言葉を駆使する詩人の影響を受けていて、彼の詞には旧約聖書的な世界に通じるイメージが頻繁に出てきます。

『船が入ってくるとき』に出てくる船の賢者が、「お前たちを世界中が見ているぞ」と叫んだり、船の中でバベルの塔建設現場みたいに船員たちの言葉が通じなくなって、船が座礁したり、最後の方にファラオの軍勢やゴリアテが出てきたりするのも、旧約聖書の世界を連想させます。

海で溺れた「ファラオの軍勢」というのは、モーセに率いられてエジプトを脱出するユダヤ民族を追撃したエジプトの軍隊のことです。ゴリアテはイスラエル王国の英雄ダビデが打ち倒した隣国ペリシテの巨人。

こうした古代のイメージを盛り込むことで、ディランの歌は時空を超えた雄大さと深さを獲得しています。


自由自在な表現


また、この歌では魚が笑ったり、カモメが微笑んだり、砂の上で岩が起立したりしますが、詩ならではの自由な表現や展開がディランの歌のもうひとつの魅力です。

船が座礁して船乗りたちが溺れたかと思うと、同じ船が復活したのか、それとも別の船が湾に入ってきたのか、船員たちが寝ぼけまなこで寝台から起き上がって、自分のほっぺたをつねって痛がったりと、スピード感がある自由な展開はアニメみたいでもあります。

ユーモラスだったり、荘厳だったり、奥深かったり、いろんなイメージが次々たたみかけてくる祝祭・カーニバルのような楽しさこそが、当時多くの人の心をとらえたディランの魅力だったのでしょう。こうした自由奔放さこそ、ディランが最も大切にしていた自由です。

それは、政治・社会活動家が人の権利として主張し、仲間・組織で囲い込もうとする自由とはまったく別の自由、ディランが大切にしていたものとはある意味真逆なものでした。


アーティストの複雑さ


『ノー・ディレクション・ホーム』には、当時ディランとコンサート活動をしていたジョーン・バエズが何度も登場します。

当時の映像でも、ワシントン大行進のライブでデュエットする姿のほか、一緒に記者会見する彼女、ベトナム戦争への抗議活動をする彼女、ホテルの一室で酔っ払うディランやその他のミュージシャンらしき人たちを醒めた様子で眺める彼女などが出てきますが、興味深いのは40年後の彼女がディランという人間について語る場面です。

彼女は「ディランは社会の弱者を理解していたからこそ、多くの人を惹きつける曲を書くことができた」と語る一方で、「決して彼女の政治活動には関わろうとしなかった」と語っています。運動の主役、当事者になるのが嫌だったのだと彼女は考えているようです。

また、彼女のコンサート・ツアーに参加したディランは、リハーサルでも本番でもわがままを言い、傍若無人な態度で彼女を困らせたそうです。その理由は、ただ私を困らせるためだったと彼女は語っています。

そして、ツアーが終わるとディランは、「次は(こういう小規模なライブ活動ではなく)、カーネギーホールみたいなでかいところでやりたい」と言ったとのこと。さらに、彼女はディランも自分のツアーに彼女を呼んでくれると思っていたのに、呼んでくれなかったそうです。

「ボブはすごく複雑な人で、理解するのは不可能」と彼女は言っています。たぶんリベラルな政治信念を貫いて歌い続けた彼女のような歌手には、ディランが大切にしていた人としての自由、アーティストとしての自由が理解できなかったのでしょう。


変化の継続


ディランが彼女のコンサート・ツアーでことあるごとに彼女を困らせたり、本番をぶち壊しにするような行動を取ったりしたのは、彼女の政治的・社会的心情、リベラルな社会派の理念に取り込まれてしまうと、自分の大切な自由が破壊されるからです。

おそらく彼が拒んでいたのは、古い左翼の政治的・社会的理念や、人を囲い込む党派性だけではありません。

映画の中で2000年代の彼は、「同じところに止まっていてはいけない、常に変わり続けていないとだめになってしまう」と語っています。

アーティストとその作品というのは、新しい作品を生み出して、の中の人々の心と響き合ったときには生きていても、同じような曲を作り歌い続けていると、外面的なスタイルに束縛され、生命力を失ってしまう。だから変わり続けなければいけないという意味でしょう。

その言葉通り、彼は作品のスタイルや内容をどんどん変えていきました。

政治的・社会的メッセージと受け取られそうな表現はフェードアウトしていき、より個人的な感性や、人間性が破壊されてしまう危機といったものを歌うようになっていきます。シンプルに言うと、より内面的なことを歌うようになったということでしょうか。

表現される内面世界は、象徴的な言葉によって、自由に、大胆に、スピードアップして外の世界の事象と連結され、豊かな世界を創造するようになっていきました。

その過程で、ブルースバンドのエレキギターやドラム、当時流行りかけていた電子オルガンなどが加わり、後のロックバンドにつながるような演奏スタイルが生まれていき、これがアコースティックギターで歌うフォークソングのファンたちに拒否反応を起こしました。


同じことを強要されることへの反抗


しかし、これもディランが過去の自分や、アーティストとしての成功を否定し、破壊することで、アーティストとして創造的であり続けようとした結果起きたことです。

ディランはこうしたロック的、ブルース的な激しい演奏を、プロテストソングやフォークソングを求めるファンたちに向けて、まるで喧嘩を売るようにぶつけました。後にジミ・ヘンドリクスやジャニス・ジョプリン、エリック・クラプトンのバンドなど、60年代後半になるともっとはるかに大音響で、激しいブルース、ロックが登場したので、今聴くとディランの演奏はけっこう穏やかに感じられますが、これでも当時のフォークファンにとっては許し難い、狂乱的な楽曲であり演奏でした。

ディランはこうした曲で過去の自分の成功パターンを破壊すると同時に、過去のパターンを強要しようとするファンや、ジョーン・バエズなど音楽関係者たちへの反感を表明したかったのかもしれません。

それでもディランの曲は、どれも人間を古い束縛的な価値観やシステムから解放する、祝祭・カーニバルのテーマ曲でした。その点は、いわゆるフォークソングの時期から、ブルース、ロックバンド的な時期へと移行しても、変わらなかったのです。

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