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三千世界への旅 魔術/創造/変革52  ニーチェの「永劫回帰」1

「永劫回帰」のわかりにくさ


ハイデガーは『ニーチェ』で、ニーチェの本に出てくる有名な「永劫回帰」という概念を、ニーチェの思想の根幹として、延々と解説しています。

学生向けの講義ですから、本気の論文より多少はわかりやすいのかもしれませんが、やはり哲学的な言い回しの洪水で語られているので、長たらしい分だけ素人には何が言いたいのか見えてきません。

僕が学生時代に読んだハイデッガーの初期の代表作『存在と時間』も難解でしたが、カントの『理性批判』やヘーゲルの『精神現象学』がちんぷんかんぷんだったのに比べると、まだ感覚的にイメージできる部分がありました。

やはり学生時代に読んだ『ツァラトゥストラはこう言った』や『悲劇の誕生』『この人を見よ』などニーチェの本は、もっと文学的でとっつきやすかったのを覚えていますが、そこに出てくる「永劫」「永遠」が何なのか、「永劫回帰」するのは具体的に何なのか、物事全般のことだとしたらなぜ永遠に回帰するのか、どこに行ってどこに帰ってくるのかといったことは、理解できませんでした。

ハイデガーの『ニーチェ』を最初に読んだのは30代の前半でしたが、ニーチェの本そのものより難解で、やはり理解は先へ進みませんでした。

その後、自分なりに人生を生きながら、世の中や人類についていろんなことを考えたり、いろんな意見に接したりする中で、多少は自分なりに物事の見方や考え方についても考えるようになったせいか、今はある程度自分なりに「永劫回帰」を解釈するようになりました。


神が死んだ時代の生き方


僕が自分にとってわかりやすいかたちで理解したところでは、まずニーチェの考え方の出発点というか前提になるのは、近代に「神は死んだ」ということです。この「神」はキリスト教の絶対的な神、唯一神です。

なぜ神が死んだのかというと、近代になって多くのヨーロッパ人が、科学的・合理的な考え方をするようになり、神を必要としなくなったからです。

ということは、それまで人間を束縛し、支配していた神がいなくなったわけですから、人間は解放されてめでたしめでたしのはずですが、多くのヨーロッパ人にとって問題はそう単純ではなかったようです。

神がいた時代は、神に従って正しく生きていれば、死んで天国に行くことができ、永遠に幸福に生きられたのですが、神が死んだということになると、人間は善人も悪人もただこの世で生きて、死ぬだけです。

それはそれでしょうがないじゃないかという気もしますが、元キリスト教徒であるヨーロッパ人にはそれが耐えられない人がたくさんいました。

マルキ・ド・サドやドストエフスキーの作品に出てくる人物のように、神に罰せられないなら何をしてもいいんだ、人を騙したり支配したり殺したりしてもいいんだという、変に極端な考え方が出てきたり、人間はただ死んでいくだけのつまらない存在なんだと考えて絶望する人が出てきたりしました。

人間はただ死んでいくために生きているつまらない存在なんだといった、ネガティブな考え方をニヒリズム/虚無主義と言ったりします。

ニーチェはこういう負け犬的なニヒリズムを嫌い、それを乗り越える生き方・考え方を提案しました。その提案は、それまでの哲学者のような論理的な考え方ではなく、詩的な文学作品のような、あるいは古代の経典の詩篇のようなスタイルで語られました。

それが『ツァラトゥストラ』であり、『この人を見よ』や『善悪の彼岸』などの本です。そこには愉快なパラドクス、逆説的な世界像や考え方が躍動しています。

そうした本によって彼は、そもそも唯一絶対の神が死んだので、人間として生真面目に落ち込んだり絶望したりする代わりに、自分を解き放てばいいんだと提案したのです。


擬似古代への逃避と現実への回帰


しかし、ニーチェが生きた19世紀後半は、まだ科学技術や金融・ビジネスの仕組みも一部のエリートが手探りで開発し、活用している状態でしたから、先進国でも多くの人は世界がどこへ向かっているのかわからず、不安に駆られていました。

当時が産業革命の時代であると同時に、ネガティブな絶望、ニヒリズムが広がった、いわゆる世紀末の時代だったのもそのためです。

ニーチェも本の中では人を幻惑するような古代の賢者みたいな言葉をまき散らしていましたが、自分が新しい時代に必要な知性を完璧に身につけた超人、新人類であるとは言っていません。

ツァラトゥストラは、意味ありげに高い山の中を歩きながら思索を重ねては、人々の前にいろんなことを言いますが、まだ十分悟りきっていないみたいなことを言って、また山の中に戻って行ったりしています。

古代の詩篇みたいな世界という設定での話ですからわかりにくいのですが、今考えると、たぶんニーチェはそんな古代の賢者を演じながら、当時の現代、つまり19世紀の科学や経済や社会について考え、自分がそこで自在に知識やテクノロジーを活用して生きる超人の域に達していないという事実に直面していたのでしょう。

本の中でどれだけ壮大な神話めいた世界を飛び回っても、人間として現実の世界に生きているかぎり、彼は帰ってくるしかありません。というより、現実は常にあり、自分は現実に生きているわけですから、「回帰」はずっと、どの瞬間も行われ、繰り返されているわけです。

僕が理解した「永劫回帰」はそんな人間の、現実逃避と現実への直面の繰り返し、あるいは現実から逃避しようとする行為と、それでも常に現実に直面してしまうことの間にある矛盾でした。


解放としての永劫回帰


ただし、それはニーチェ自身が考えていた永劫回帰そのものではありません。彼はそういう状況に置かれてもがきながら、決定的な打開策を模索していたでしょう。それがおそらく書かれなかった最後の本『力への意志』のテーマである意志=力だったのでしょう。

そうした前向きな模索の中でニーチェ自身が考えていた永劫回帰は、僕が理解した人間の矛盾した状態としての永劫回帰より、もっと前向きなものだったようです。

『ツァラトゥストラ』には「私は永遠を愛する。おお永遠よ」と、歌うような詩が出てきますが、ニーチェは科学や経済の数理的原理に管理された時間や空間が解放される時間、自由な悠久の時間として「永遠」をとらえていたのでしょう。

しかし、科学や経済などの数理的な仕組みと、その管理から解放された自由な状態は、そのままだと対立・矛盾しているように見えます。どうやったらその対立や矛盾を克服できるんでしょうか?

そこにニーチェお得意の逆説的な考え方の魔術があるのかもしれません。


シェリングの反復


ニーチェにとっての永劫回帰を理解するヒントは、彼より前の思想家・哲学者たちの考え方の中に探ることができます。

たとえばシェリングが生きた18世紀末には、まだ「神は死んだ」という考え方、いわゆる無神論は、19世紀よりもっとスキャンダラスであり、多くの人にとって受け入れがたいものでした。

先に紹介した『仮想化しきれない残余』でスラヴォイ・ジジェクは、シェリングの世界観について語っていますが、それによるとシェリングにとって世界は間抜けな神が創り出した失敗、できそこないの世界でした。

ヨーロッパの先進国だったフランスで革命が起き、王政が崩壊し、革命勢力のバトルロワイヤルや、ナポレオンの独裁、帝政の樹立、革命を輸出する戦争など、それまでの価値観が崩れ去っていく時代を生きたシェリングにとって、世界もそこで生きる人間の生も、苦痛に満ちたネガティブなものだったということでしょうか。


失敗作としての人間と永遠の反復


神は存在したし、世界を創造したのだけれども、その創造は失敗で、だから世界はろくでもないことになっている。おかげで人間はできそこないの世界でろくでもない時間を生きなければならない。そして、その世界をなんとかしようとするたびに失敗し、失敗した世界創造に何度でも立ち帰らなければならない。

時間は唯一の絶対神である神が世界を創造したときから始まったのであって、その前には時間も世界もありません。そして、ポンコツの神が創り出した失敗作としての世界や時間、人間は、できそこないの時間の中でもがくことで、常に始まり立ち返ることを余儀なくされます。

それがシェリングにとっての反復です。

この反復は延々と繰り返されますが、できそこないの人間がしかたなくやることであり、ネガティブで苦痛に満ちたものですから、ニーチェが「永遠」と呼ぶような、解放された悠久の時間はありません。立ち帰らなければならないのは、常にそれ以前には何もない、ただの「底」です。

長くなりそうなので、今回はここまでにして、続きはまた次回に。

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