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三千世界への旅 魔術/創造/変革79 閉ざされた価値観

ねじれと引きこもり


僕が欧米先進国の科学的・理性的・合理的な支配の中に隠れている非理性・不合理を告発しておきながら、その支配に反抗して戦争に負けた大日本帝国を否定するのはある意味奇妙と思われるかもしれません。

しかし、欧米先進国に非難すべき点があるからといって、それと対立して戦った勢力を肯定しなければならないということにはなりません。

大日本帝国にしろナチス・ドイツにしろ、その非理性は欧米先進国の科学的・理性的・合理的システムに対するねじれた強迫観念や恐怖心から生まれていて、そこには不健康な攻撃性が隠れていました。

そしてその攻撃性は欧米先進国に向けられる前に、まず身近な弱者に向けられました。大日本帝国の場合はそれが中国や朝鮮などアジアの人々でしたし、ナチスの場合はユダヤ人でした。

日本人を他のアジア人の上に置いて、支配の正当性を主張する価値観は単に非理性的であるだけでなく、日本人の中でしか通用しない閉ざされた価値観です。

大日本帝国が無謀な戦争に突き進んだのは、そういう外には通用しない閉ざされた価値観を主張するには、戦争という非理性的で不合理な手段しかなかったからです。


引き継がれた深層心理


敗戦後の日本はアメリカの支配の下で再出発し、経済大国になりましたが、このねじれて閉ざされた心理は日本人の中に相変わらず隠れています。

欧米先進国の科学的・理性的・合理的な価値観を受け入れながら、優等生として経済発展に突き進んだ戦後の路線自体は、大日本帝国時代とそんなに変わりません。

欧米流の科学的・理性的・合理的な価値観を自分たちの意識に取り込んで考え行動することによって、日本人の意識には強迫観念的なストレスや恐怖が蓄積されていくのも同じです。

この非理性は欧米流の価値観に染まった自分を欧米人に置き換え、他のアジアやその他の地域の人たちを見下すことでバランスを取ろうとします。

敗戦後の日本が変わった点は、世界の支配者であるアメリカに迎合する姿勢ですが、それも明治時代に欧米列強と不平等な条約を結んで、技術や知識をせっせと学び、高い機材や人材を買いながら欧米化していったのと、路線的には同じです。

そしてそうした行動によって自分たちを欧米人より下に位置付けてしまうストレスフルな価値観を、心理的に反転させる非理性の仕組みが、中国や朝鮮など他のアジア地域の国や人々を自分たちより下に置いたり、それらの国や人々の態度に腹を立てたり憎んだりする感情を生み出すわけですが、これも大日本帝国時代とそんなに変わっていません。

その深層心理に、欧米への劣等感や、そのセオリーに従順でいなければならないことからくるストレスがはたらいていることも同様です。

それは欧米の科学的・理性的・合理的な考え方を建前とした日本人の本音であり、日本人にしか通用しない、ねじれた引きこもりの価値観です。

おそらく科学的・理性的・合理的な価値観を受け入れ、それにしたがって考え行動しなければならないことからくるストレスは、欧米先進国を含めてすべての人々にありますし、それが国家や人種や民族や宗教間の対立、差別、憎悪など非理性的な感情になって吹き出すことで、様々な紛争やテロ、戦争といった事態につながるわけですが、そうした非理性は誰の心にも潜んでいるからといって、そうした非理性的な行動が正当化されるわけではありません。


理性と非理性のネガ/ポジ的関係


これまで何度か触れてきたように、科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みは、世の中で物事をうまく機能させていくための手段・ツールであり、それ自体に善悪があるわけではありません。

しかし、それがある勢力の非理性的な意欲・意図によって、彼らの利益のために活用されると、世の中あるいは他の勢力・人々にとって不合理で有害な結果をもたらします。

一方、非理性もそれ自体は善でも悪でもありません。感情や直感的な想像といったものは科学や理性で完全に制御できるものではありませんし、その必要もありません。

ポジティブな感情は自分たちにとっても世の中にとっても、何か有益なことをする力になるかもしれませんし、人類は神とか精霊といったものを作り出すことで、自分たちの世界・社会を拡張してきました。

また感情は、人間がそうした拡張を推進していく上で避けられない違和感や恐怖、ストレスといったものを外に出して解消するための機能でもあります。

ホモサピエンスが知的になり、仮想化領域を拡大していくことで、自分たちの都合のいいように世界・社会を拡張していくようになるにつれて、その手段としての科学的・理性的・合理的な考え方や仕組みが肥大してきたわけですが、それはそもそも自然界・生物界において、身勝手で不自然なことです。

意識するしないとは別に、そこに生じるストレスが精神の中で転写された結果生まれるのが非理性的な精神の領域であると言えるかもしれません。

あるいは、そもそも人類が知的になってきた過程で、理性と非理性は互いにネガ・ポジとして作用しながら、仮想化領域を拡張してきたといった方がいいでしょう。


開いたシステム


理性と非理性について考えるとき、ひとつポイントになるのは開いているか閉じているかということです。

開いているか閉じているかで言うと、科学は理論上、開かれた仕組みだと言えます。

科学は自然科学であれ、人文科学であれ、物事の定義をして、それがどんな性格を持っているか、どんな法則が働いていて、それをどう活用するとどういう結果になるかといった説を提案し、学として分野をまとめながら拡張・発展させていきますが、どこの誰でもそれまでに蓄積されてきた学や説について、学び検討することができますし、そこから新しい説を提案することもできます。

もちろんどんな説も絶対的に正しいということはありえませんから、新しい発見や革命的な提案によって、それまでの定説が覆ることもありますし、複数の説にそれぞれ支持者がいて、論争が続いていくということもありますが、それも科学が開かれているから起きることです。

人類が火の使用法や石器などの器具、狩猟や採集の方法を発明した原始の時代から、なんらかの科学はあったし、僕が科学・理性・合理性の時代と読んでいる近代まで、それは色々紆余曲折を経ながら、拡張・発展してきたと言えます。

近代に人類社会を急速に豊かにした経済の仕組みも、そうした科学的な仕組みのひとつです。

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