見出し画像

三千世界への旅 縄文17 世界観の変容

農耕民の世界観と平地の出現


弥生時代以降に縄文時代の信仰がかたちを変えて生き残った一方で、弥生時代以降の農耕社会には、世界観にある大きな変化が起きたと瀬川拓郎は言います。

それは海と山という二元的な世界観が、平地と山という二元的な世界観に変わったことです。

そして、農耕民の山の神は、春になると里に下って田の神となり、秋には収穫を祝う祭りを終えて山に帰るようになります。

つまり山と海ではなく、山と平地を往復する神になったわけです。

特に注目すべきなのは「海の神が失われたことであり、川が海の神に帰属しない一種の無主地となったこと」だと彼は言います。

縄文人にとって海と川は、漁や行き来、輸送を行う一続きの世界でしたが、農耕民の世界では川が海と切り離され、川の水利権は農耕民の世界に帰属することになります。

平地で農耕を行うために、農耕民は川を支配するようになったからです。

これによって、縄文時代には山と川、海で自由に食料を獲得できた人々は、農耕民になって平地の民になるか、海辺で漁業に特化するか、あるいは山で狩猟民になるかといった選択を迫られたでしょう。

そして日本では弥生時代以降、平地を主要な世界とする世界観と社会・経済システムが主流になっていきます。


海の神とアニミズムの精霊


ここでひとつ気になるのは、縄文時代のアニミズムと、瀬川拓郎が縄文人の信仰の名残りとして紹介している伝説・神話との関係、特にそこで海の神・山の神という人格神的な神々として登場する神々との関係です。

アニミズムの精霊は、人間を含めて自然界の万物に偏在するもので、古代神話の人格神とは本質的に異なるはずです。

一方、『古事記』や『日本書紀』に出てくる神々は、イザナギ・イザナミは天から派遣されて自然を混沌から秩序あるかたちに整理整頓する神々ですし、彼らが生み出したオオワダツミ(海の神)やオオヤマツミ(山・大地の神)などの自然神も、自然を統括・支配する神々であって、自然そのものに偏在する精霊・魂ではありません。

黄泉の国から戻ったイザナギが単独で生み出したアマテラスやスサノオも自然界の精霊ではなく、地上の世界を支配する多神教的な人格神です。

一方、神話や伝承に登場する山の神・海の神はどうでしょう?

山の神は農耕の神になったことで、自然に偏在する精霊・魂ではなく、農耕民が豊作を願って捧げ物をして拝む、多神教の自然神に変化したと見ることができます。

山幸彦・海幸彦の神話では、人間に似た行動をとる人格神になっていますから、これもアニミズムの精霊・魂ではなく、多神教の神々です。


化け物になった海の神 


しかし、同じ山幸彦・海幸彦の物語で、海の神の娘は最初人格神の姿をしていて、山幸彦つまり山の神と海の世界で出会い、恋に落ちて子供を身籠りますが、出産の時点で実はワニ(サメ)であることがバレてしまいます。

そして、彼女がサメであることが障害になって、2人は別れてしまいます。

そこで注目されるのは、サメであることが化け物であるかのような位置付けになっていて、結婚の障害になっていることです。

そこには、農耕社会への移行で、山の神が農耕の神に変化し、海の世界と切り離されたことが反映されているのでしょう。

農耕民の社会が成立したことで、縄文時代には自然そのものであり、精霊だったものが化け物になり、それに関わることが一種のタブーになったとも言えます。


農耕民の価値観と心理


なぜ、海の神・海の世界はただ農耕社会から切り離されるだけでなく、化け物や恐ろしい世界に変化しなければならなかったのでしょう?

もしかしたらそれは、やましさの裏返しのようなものだったのかもしれません。

朝鮮半島からやってきた農耕民が、川の水利権を海から切り離し、海の民の生活領域を海辺に限定したということは、先住民から生活圏の半分を奪ったことであり、それは彼らにとって一種のやましさを感じさせるものだったでしょう。

それを正当化するために、彼らは先住民の山の神を農耕の神に変えて、豊作を叶えたり祝ったりする祭礼に利用し、海に追い払った海の神は化け物だということにしたのかもしれません。

一種の居直りです。


農耕民の神話と縄文の世界観の違い


ここまで弥生時代以降の神話・伝承に残った縄文の信仰や世界観を見てきましたが、ひとつ気をつけなければならないのは、それが縄文の信仰や世界観そのものではなく、あくまで農耕への転換が行われた社会の神話・伝承に転換されたものだということです。

たとえば海の神がサメであるというのは、人やサメも含めて自然界のあらゆるものに魂・精霊が存在するという、縄文時代の信仰の中にあった価値観かもしれませんが、それが人格神のような姿をして、やはり人格神になった山の神と恋に落ち、子供を身籠ったことでサメ、化け物であることがバレてしまうというのは、農耕民による縄文的信仰・世界観の改ざん・歪曲なのではないでしょうか。

農耕民は自分たちの都合で縄文の価値観・世界観を改造し、自分たちの価値観・世界観の中に活用したと思えるからです。


無視できなかった先住民の世界観


ここでもうひとつ疑問が湧いてきます。

それはなぜ、農耕社会に取り込まれたり、一部は海辺へ隔離されたりした先住民/縄文人の世界観を、自分たちの神話に取り入れなければならなかったのかということです。

農耕民は効率的・生産的な水田耕作というシステムで日本列島の大部分に広がり、先住民/縄文人とも混血・融合して、日本列島を支配する弥生人/倭人になったわけですから、そんなに先住民/縄文人の信仰や価値観を気にしなくてもよさそうなものです。

なぜ彼らは縄文の信仰や価値観を自分たちの神話の中に組み込んだのでしょう?

その答えはたぶん、先住民/縄文人の価値観・世界観が、新弥生人にとって無視できないほど強固だったからということになるのかもしれません。

弥生人は農耕という食糧生産システムで勝利し、多くの先住民/縄文人を自分たちの農耕社会に吸収したわけですが、おそらく農耕民になってからも、彼らの中の先住民/旧縄文人は、価値観・世界観の違いに違和感を抱き続けたでしょう。

NHKの『フロンティア 日本人とは何者なのか』で紹介されていた弥生人のDNA鑑定によると、弥生人と旧縄文人との遺伝子は半々だったということですから、両者が融合した弥生時代は、半島からの渡来人と旧縄文人の人口比率が半々くらいからスタートしたでしょう。

50%というのは無視できない人口比率です。

ただ人口的に半々だったというより、半島からの渡来人と先住民/縄文人が融合して生まれた弥生人の社会的な意識の中で、無視できない力を持ち続けたということかもしれません。


ヤマト王権まで受け継がれた縄文的世界観


最近の研究では、縄文人は半島からの渡来人に武力で征服されたわけではなく、何百年かかけて徐々に融合が行われたということですから、新しい価値観・世界観が形成されていく過程で、先住民/縄文人の価値観・世界観はそれなりに尊重されたでしょう。

さらに、『フロンティア 日本人とは何者なのか』によると、弥生時代がスタートして千数百年後のいわゆる邪馬台国の時代からまもなく、倭人の小国分立状態から統一国家が形成されそうなタイミングで、朝鮮半島や大陸からもっと多種多様な部族・民族が海を渡ってきて古墳時代が始まります。

そこから数百年の戦乱や征服の時期を経てヤマト王権による統一国家が誕生するわけですが、古墳時代の多種多様な渡来勢力もまた、先住民である弥生人の価値観・世界観に配慮しながら、統一国家のビジョンを構築したようです。

最終的に奈良時代の『古事記』『日本書紀』『風土記』などにまとめられた神話・伝承・歴史の中に、縄文の価値観・世界観の痕跡が見られるのは、ヤマト王権が配慮して受け継いだ弥生時代の価値観・世界観の根底に、縄文の価値観・世界観があるからだと言えるでしょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?