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本当の豊かさとはなにか



私たちは、日常でままならないことを経験していくうちにふと、

“人の一生って何なんだろう”
“人はなぜ生まれてくるのだろう”
“人は何のために生きているのだろう”

と思うことがあります。




そして、それらの疑問の答えとして私がたどりついたのは、

奪うことから与えることへと変わること

なのではないか。

そしてそのシフトチェンジが起こるきっかけは、自らの幸せを追求できたときなのではないか、と思っています。



今日の社会を考えると、自分を本当に・・・幸せにすることはなかなか難しいように思います。

なぜなら、主体性を持たずに生きていると、気がつくと自分のお金も若さも健康も失った状態になってしまうからです。

自分軸で生きていない状態で消費活動をしても、結局は一時しのぎに過ぎず、私たちは絶えず湧いてくる欲望を満たすために刹那的に生きなければなりません。

その時は満たされたと思っても、不安や不満に次から次へと襲われ、結局は幸せが長続きしないのです。

つまり、自分の中だけで完結する消費の仕方は、その時はよくても必ずどこかで限界が来るということなのです。


この世に変わらないものは何一つありません。

なので、誰かや何かに依存していると、必ず痛い目にあってしまいます。

“変わりゆくもの”にお金や時間をかけて“変わらないもの”にしようとしても、無理があるのです。

そんな状態が自分の幸せだと思っている限り、私たちは本当に幸せになることはできないのです。



本来、人の幸せは人それぞれです。

10人いたら、10通りの幸せな生き方があります。

社会の中にある一般的な“幸せ”が、すべての人に当てはまるわけではありません。

たとえどんなにマイナーな生き方であっても、人から評価されなくても、

その人が幸せだなと思ったら、それはその人にとっての幸せな生き方なのです。

“これが私の幸せな生き方だ”と、自分らしい幸せのカタチを見つけることが、その人の中にある能力であり才能だと、私は思っています。




そもそも、自分を幸せにすることほど、この世で尊いことはないと私は思っています。

もちろん、他人に迷惑をかけたり不快な思いをさせてしまってはいけませんが、

たとえ人から理解されなくても、非生産的で無駄なことであっても、

これが自分の幸せなのだというものを見つけられること、それを自分のために追求していけることほど、この世で尊いことはないと私は思っています。

それができれば、この世から争いごとはなくなるんじゃないかとさえ思います。



冒頭に書いた

“人の一生って何なんだろう”
“人はなぜ生まれてくるのだろう”
“人は何のために生きているのだろう”

これらの疑問の答えは、奪うことから与えることへシフトチェンジしていくこと。

つまり、“愛”を奪う状態から、与える状態へと変わっていくことだと、私は考えます。


この世に変わらないものは何一つない、と書きましたが、唯一あるとすればそれは“愛”だと私は思います。

愛を奪うことから愛を与えることへ変わること。

どんな道をたどるにせよ、私たちの人生は最終的にそうやって変化していくのではないかと思うのです。

愛とはつまり、気持ちです。感謝の気持ちだったり、相手を労わる気持ちだったり、喜びを共有する気持ちだったりするものです。



ここで、アメリカのボブ・ムーアヘッドという牧師の方の説教を一部引用します。

その名も、『この時代に生きる 私たちの矛盾』です。

ビルは空高くなったが 人の気は短くなり
高速道路は広くなったが 視野は狭くなり
お金を使ってはいるが 得る物は少なく
たくさん物を買っているが 楽しみは少なくなっている
家は大きくなったが 家庭は小さくなり
より便利になったが 時間は前よりもない
たくさんの学位を持っても センスはなく
知識は増えたが 決断することは少ない
専門家は大勢いるが 問題は増えている
薬も増えたが 健康状態は悪くなっている


忘れないでほしい
愛するものと過ごす時間を
それは永遠には続かないのだ
忘れないでほしい
すぐそばにいる人を抱きしめることを
あなたが与えることができるこの唯一の宝物には 1円もかからない
忘れないでほしい
あなたのパートナーや愛する者に「愛している」と言うことを 心を込めて

あなたの心からのキスと抱擁は
傷をいやしてくれるだろう
忘れないでほしい
もう逢えないかもしれない人の手を握り
その時間を慈しむことを
愛し 話し あなたの心の中にあるかけがえのない思いを分かち合おう

人生はどれだけ呼吸をし続けるかで決まるのではない
どれだけ心のふるえる瞬間があるかだ

佐々木圭一著『伝え方が9割』 より引用

最後の2行は、医学博士の斎藤学氏が書いた本に、似たような記述が出てきます。

あなたがいきいきと喜んだり涙を流したりしたその経験は、心の奥深くに、エッセンスとなって残っているはずです。それは、何ものにも替えがたい、貴重な宝です。預金通帳の金額よりも、本物のダイヤモンドや金貨よりも、心の中のダイヤモンドが増えていき、心の中の金貨が増えていく。それが人生の豊かさなのではないでしょうか。

斎藤学著『「自分のために生きていける」ということ』より引用


結局、モノを消費しても心は満たされません。

お金をあの世に持っていくこともできません。

私たちが死ぬ間際になって、「ああ、生き切った。後悔のない人生だった。」と思えるのは、

この“心のふるえる瞬間”をどれだけ経験できたか、

“心の中のダイヤモンドや金貨”をどれだけ増やせるのか、

ということなのではないでしょうか。


そして、

愛する人に愛を伝えることは、大げさでなくていいのです。

身近にいる人に、『ありがとう』や『ごめんなさい』と素直な気持ちをどれだけ伝えられるか。

やってくる当たり前の日々をどれだけ大切に生きられるか。

それだけでいい気がします。

この”1円もかからない”行動は、モノを消費したり経済活動をすることよりも、もっとずっと偉大で価値のあるものなのです。

もちろん、消費によって幸せになれることもあるでしょうし、消費すること自体を否定したいわけではありません。

ただ、モノがあふれた今日の社会では、消費することよりも、もっと誰もが簡単にできてそれでいてとても大事なことが、軽視されているのではないかと思うのです。


誰かの言葉に、心がホッとすることがあります。

誰かの何気ない優しさに、心が救われることもあります。

人に愛を伝えること。それが一番大事なのです。

そして何よりも、この世で最も尊い存在である自分に愛を与えるべきなのです。



人は何のために生きるのか。

そんな壮大な疑問に対する一つの答えとして私が思うのは、

自分なりの幸せな生き方を見つけ、追及していくため。

そして、愛を奪うことから愛を与えることへと変わるため。

この2つこそが、人が生きていく理由だと思っています。





ここまでお読みいただき、ありがとうございました🍀


※参考文献↓


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