その日の夢を見る ファイル3
3歳の女の子KちゃんがOto to Art に来てくれた。彼女はお母さんと一緒に何度も僕たちのライブに足を運んでくれていた。僕たちのライブでは、聴いている人にも楽器を渡すスタイルをとっているのだが、Kちゃんも楽器を手に取り、ライブ中音を鳴らしまくる姿が印象的な子だった。その時手にとったマラカスを気に入って「持って帰りたい!」とおねだりしていたので、じゃあ次回会う時に持ってきてね、と迎えた今回。
彼女はお母さんと共に例のマラカスを持って現れた。何日も前から、「エマちゃんゆうひくんにあと何回寝たら会える?」とお母さんに聞いていたそうで、ずーっと楽しみにしていたみたい。でも面白いもので、会う時は毎回が"初めまして" の状態になる。ものすごく恥ずかしがっていて、玄関の壁に向かって立ち、「恥ずかしい〜、、」と最初はしばらくもじもじ。笑
大体毎回どの子も最初は恥ずかしがるとか、急には弾けずにちょっと場の様子を伺う感じがある。 毎回が「初めまして」 の感覚は 僕も持っていて、仲の良い友達でも 久しぶりに会うと最初、どう接したらいいのか、関係性のチューニングのようなものに時間がかかることがある。 同じ人、同じ場などは、同じなようで実は同じで無い。そういう感覚がある。子どもたちの「邂逅」の瞬間も、根底にはそういう感覚があるのではないか。
このOto to Art の場では、「毎回が新鮮"」ということを大事にしたいので、「邂逅」の瞬間に子どもに「働きかけよう」とするのは禁物だ。
それでも、親も居る手前、「いい先生」「いい大人」 を演じる自分がひょいと顔を出す。イケナイイケナイ。ここで焦るのはあまりよくない、と僕は思っている。 ・・・あまりにも恥ずかしがっているもんだから、ちょっと彼女にお節介を焼きすぎたと反省したので、僕は敢えてその場を去り、少し距離を置いて様子を伺った。こどもたちとのコミュニケーションは動物的だ。
ライブの時、僕らもよく使う、おうむ返しの「ゴマちゃん」(アザラシのおもちゃ)。Kちゃんはゴマちゃんもお気に入りで、ライブの後歌いかけて抱いて離さない。ゴマちゃんが恥ずかしさに風穴を開けてくれた。
それから、はにかみながら粘土コーナーへ。お母さんも一緒に粘土を。少しずつほぐれてくる。粘土をやっているともう恥ずかしさはどこへやら。エマやお母さんと一緒に粘土をする。お母さんの作ったカタツムリをぐちゃぐちゃにしたり、僕の作った「神様」 を爪楊枝で差し貫いたりとなかなか女の子にしてはワイルドだ(笑)。
彼女のライブへの参加の仕方、ライブ後の遊び方も結構豪快なので「Kちゃんism」が出始めたなーと、みんな笑う。
その後、他の親子が作って置いていった粘土の三色団子に触発され、せっせと団子を作り始める。エマが、団子屋をやろうと提案し、お金を紙で作る。3つばかり作った団子。それぞれ値段をいくらにするか訊くと、「3円、7円(これを"ななえん" とは言わずに"しちえん" と言っていたのがツボだった)、8円」といずれも可愛い値段。とても安くで団子の手に入る平和な世界である。もしくは大正時代の日本か。
その間、僕やお母さんが並べてあった琴の音を出すと、とても不快そうな表情で「いい音しない!」。ウクレレや大正琴も、「うるさーい!」「いい音しない!」と来たもんだ。ライブでは楽しそうに音楽の中に入ってくる彼女だが、ライブの文脈と「音遊び」はどこか違うようだ。
それからKちゃんたちが団子屋の準備を進める中、僕は得意のダンボールハウス作りに取り掛かる。前回、前々回と、大きめのダンボールは使い切ったので、小さいダンボールをなんとか張り合わせてKちゃんが入れるくらいの部屋を作る。ダンボールの底に敷いてあった板状のダンボールが何枚もあったので、それを屋根瓦にした。団子屋の準備をしながら、マイホームの完成を心待ちにしている様子。 最初から部屋の鋳型になるようなダンボールがなかったため、少し苦労したが、なかなかいいお家が出来そう。
完成前に一度Kちゃんにおうちに入ってもらった。いたく気に入ったご様子。あとは扉を付けて、床を敷くだけ。床には、でーっかいプチプチがあったので、「気持ちいい床にしよう!」と言って、豪快にプチプチを敷く。沢山のぬいぐるみたちを迎え入れる。 一人用にしてはちょっと大きめのお家になったので、ダンボールで机も作った。お菓子やジュースを机の上に載せて楽しんでいた。僕は自分が入っているかのような気持ちに!
それから、Kちゃんは先程の粘土団子を一つずつ串から外し、屋根にぶちゅっと貼り付けてゆく。「かわいーね!ナイス」 Oto to Art は子どもだけが対象というわけではないので、大人編の時は一緒にダンボールハウス作りをしても面白いかも。持って帰るのは大変だろうが・・・。
Kちゃんのお母さんは、フルートも吹かれる人なので、お母さんのフルートをフィーチャーしての即興的な楽曲制作、録音も行った。
Kちゃんは、とにかくあまり音の方には来ず、お家遊びや団子屋ごっこをずっとやりたそうにしていた。
再び粘土へ。紙粘土が2種類あり、それぞれ違う持ち味。一つは物凄くネバネバで、造形には向かないもの。でも、開けたいと言うので開ける。もう一つは、ちょっと劣化してしまっていたのか、かなりパサパサ。Kちゃんも僕も、パッサパサに、粉々にして遊んだ。
それから、洗面所へ一緒に手を洗いに。 蛇口を思い切り捻ってはしゃぎ始めたので、僕も思い切り捻る、止める、また思い切り捻る、止める、捻る、、、をやって二人で大爆笑。蛇口でこんな風に遊んだのはいつぶりだろうか。子どもは全てを遊びに変える!蛇口はKちゃんにとって「蛇口」ではないわけだ。ここは面白いところ。
蛇口遊び後は、「探検しようか」と言って和室へ。和室は半分物置き状態になっていて、さまざまなものが所狭しとある。ほんとは片付けたいんだけど、、、これらを移し替える場所があまりなく、考えあぐねていた。が、前々回のH君と言い、今回のKちゃんと言い、初めて見るさまざまなものに興味津々だ。僕らにとって「ありふれたもの」も、彼女たちにとっては「名付ける以前のもの」「初めまして」なのだ。子どもが「初めまして」から遊びを創造するプロセスが面白い。だからまあ・・・片付いてないのはそれはそれでよかった(という言い訳)。
Kちゃんは工具箱に物凄く興味を持ち、開けると目の前に広がるさまざまな細々とした部品類(ネジ、クギ、ナット、鉄のリングなど)を畳にぶちまけて、お家を作ろう、と言うので、作ってみた。正確には、「作ろうと」してみた。お家をつくるにはとてもじゃないけど材料は足りない。しかしこの場合、お家が出来たか出来なかったかはあまり問題ではない。部品に触れ、そこから何かを作ろうとする「プロセス」にこそ醍醐味がある。Kちゃんは気づけば「お家を作る」という目的など忘れ、今着想したものを作っている。着想は、雲のように形を変えながら流れている。
その結果、さまざまな未完成品が生まれた。Kちゃんの作品「サンドイッチ」なる作品はなかなか面白くて笑ってしまった。ネジに通すような鉄の輪(最初Kちゃんはこれを目にした時「お金?」と言っていた。ほんとに、硬貨のような見た目)を何枚も、両面テープの上に並べ貼り付けた上で、その両面テープを真ん中で折り畳んでペタリと貼り付けるのだ。たしかに紛れもない「サンドイッチ構造」だ!笑 部品でサンドイッチを作るなんて、思いもよらなかった。
僕らは、何かを目にした時に、大体は既にそれを知ってしまっているから「これは〇〇だ」と思い、〇〇として記号的に見てしまう。けれど、Kちゃんの「お家を作ろう」という提案で「今ある素材で」作らざるを得なくなる。「ここにあるものでは出来ない」という選択ももちろん可能だが、この場合「ここにあるものでいかに作ろうとするか」という選択の方に面白さがある。僕の音楽へ向かうスタンスも同じで、楽器が無い場所でどう音楽が生まれるか、生み出し得るか、ということを大事にしている。
「遊び(創造)の精神」は、「無い」ところから生まれる。むしろ、僕が子どもたちから試されているような気分。笑 なので、僕もOto to Art の時は負けじと遊んでるんですが。笑 「ありふれたもの」を脱色し、違うものを作ろうとすることは、日常に喜びを見出していくために、大切なことだ。
「コップ」は「コップ」ではない。「ハサミ」は「ハサミ」ではない。
「名付け」以前の環境作りをするために、ある程度役割や固有の個性がハッキリ決まってしまった"既製品" は少なくした方がいい。逆に、役目を終えたものや、ガラクタと言われるものなんかは、自分なりの「名付け」を行う余白が大きい分、創造性を掻き立ててくれる。Kちゃんを見ながらそんなことを考えた。
こんな風に遊んでいると、興に乗ってきたKちゃん、鼻歌や叫びが口をついて出始めた!今日で一番「音楽してる」 瞬間。すかさずボイスメモに録音。音楽は、「やろうとしてやる」というより、自然に生まれるものなんだよなあ。遊びの中に音楽があり、食事の中に音楽があり・・・。
それは決して「音楽が並列的に在る」のではなく、それらさまざまな行為が興に乗ってきた時に、内側から溢れてくるもの。蠢くもの。それが音楽の芽。僕は食事が楽しい時身体が揺れる。
今日一番のKちゃんの鼻歌、素晴らしかった!それを素材に、楽曲を作り、いつもの如く、プレゼントしました! 今回はこのような感じ。
また次回、どのように遊びが変化するのか、どのように音楽が生まれるのか、とても楽しみです。3歳のKちゃん親子との、Oto to Art 実践記録でした!
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