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〔事例3-中編〕何も持ってない人も、どうぞいらっしゃい!(音楽ライブ&即興料理イベント「ギブミーベジタブル」参加報告②)

一つ前の記事で紹介の ギブミーベジタブル
https://note.com/easy55/n/n2e460e9b2d04

「入場料が野菜!誰でも楽しんでって〜♪亅
という 実にオープンな集いでした。

その記事〔事例3-前編〕の中で紹介した
ポイントは―――

財産や教養を〔もっていない人〕は
仲間に入れない世の中になっている、
だから、それを壊して
〔ただの人〕でも楽しめる場をつくりたい

という
トークショー内での提案を
紹介させて頂きました。

今回も、引き続き
3人のトークショーを…

●池田義文 (ギブミーベジタブル 考案者
     & 民俗学者・ミュージシャン)
●梶田真章(法然院貫主)
●藤原辰史(京都大学人文科学研究所准教授)

御三方によるトークの〔続き〕を
御紹介させて頂きたいと思います。

〔ただの人〕でも楽しめる場。

どうやって作るのでしょうか――?!

左から池田義文さん、梶田真章さん、藤原辰史さん

(藤) 各地で
 このイベントやってらっしゃるそうですが
 土地ごとに集まるモノが違うそうですね。

(池) 「その土地で採れたモノを頂く」って
  豊かさを実感できるというか・・・

   料理人の方々も、現地の人達ですので。

   その土地その土地の
   御当地の食文化を味わえるので、
  ホントに 面白いですよ。

(藤) そうなんですねえ……

  で、 改めて伺いますけど、
     ギブミーベジタブルには、
   どういう感じの人が来るんですか?

(池) 本当にいろんな人が来ますよ、
  一言でいえば、面白い人 (笑)。

  そして
  ギモンを持ってる人ですね。

(藤) 社会の矛盾が、
   〔食〕に凝縮されてますからねえ。

(梶)仏教では、食事に関して
  一味同心(いちみどうしん)という
  言葉が ありまして・・・

  〔同じものを食べて 同じ心になれる〕
  という意味なのですが。

  仏教の中でも 食を、
 〔動物と植物に分けて考える宗派〕と、
 〔分けない宗派〕がありまして。

 分ける宗派は「植物なら食べてもいい」、
 分けない宗派は「どちらも食べてよい」と。

 お釈迦様は、
 信者の人からもらったキノコに当たって
 亡くなったとされてますが
 実は 豚肉に当たって亡くなった、
 という説もあるのです。

〔お釈迦様に食べてもらうために
    殺された動物の肉〕は
食べる事はできないけれども、

〔家族の方々が食べた残り物の肉〕
なら頂いてもよい、と
されていたのですね。

〔残り物をありがたく頂く〕
というのは、現在、
流通の問題で大量の〔フードロス〕が
起きてる事への解決につながる 
考え方だと思います。 
  
そして仏教では
不殺生戒(ふせっしょうかい)
という教えがありまして、
一般には
〔生き物を殺すな〕という教えとして
捉えられていますが――――

〔戒〕とは そんなに厳しいものではなく
「なるべく、そうしましょう」くらいの
〔ゆるい習慣〕のようなニュアンスです。

あまり、こだわり過ぎなくてもよいかと。

ですから、お肉も、野菜も、
今日はたくさん頂いていますので、
ありがたく いただききましょう(笑)

「一緒に食する事で共感という心が育つ」

私どもも思ってますので。これは、
京大の山極寿一先生のお考えですが。

(藤) 一緒に食べるって、大事ですねえ。
  本当に そうだと思います。

現代の日本で、皆が
一緒に食べれなくなってるのはなぜか?

それは〔もってない人〕がはじかれてる
からだと思います。

だからは、
私は〔たかる〕という事をすすめたい。

持ってない人が持ってる人に
おごってもらう行為です(笑)

〔たかる〕は
 漢字では〔集る〕という字でして、
 古い時代の字では
 この字の上の部分〔隹〕が
  三つ集まった字が使われてました。

※ たかる〔集〕の 旧字体

これは
〔実のなる木に鳥たちが集まってる〕形で

〔食べ物がある場に 人々は集まる〕
という事を表してしてるんですね。

〔たかる〕行為は、
近代という時代に抑圧されてきたものを
堂々と溶かしてくれると思います(笑)

※ 参加者が次々と野菜を〔壇〕に置いていきます

(藤) それにしても・・・
 今日は 集まってきた食材が多すぎですね、
 ありがたい事です(笑)

そして
これをまず〔壇〕に捧げる、という儀式が
大切なのですね。

(池) 民俗学では、音楽や芸能の起源は、
  食べ物を捧げる儀式にあったと
  言われています。

 〔壇〕に捧げ置くときに、
  自分の心も そこに置く――。
 
  そういうものだと思います。

(藤) ここに来て、壇に捧げたとたん、
  所有権がなくなるんですね。

  みんなのモノになるんだ・・・

※ 皆さんから提供の野菜,この後も続々と。調理場へ次々と運ばれます

(梶)   我々僧侶は、
  仏飯(ぶっぱん)といって、
  仏様に供えられたモノの、お下がりを
  頂く事が かつては多かったのです。

 昔は、お供えされていたモノの残りを
 煮込んだのを 御雑煮(おぞうに)と
 呼んでました。
 そういう意味で
 今日は、まさに御雑煮だと思いますよ(笑) 

昔は、お正月を迎えた瞬間に
みんな一緒に歳を取ったんです。

年末に「良いお年を」と言いますよね。
あの〔お年〕は、来年の意味ではなくて、

〔あなたの年〕が良い年になりますように、
と相手の人へのお祝いの言葉なのです。


(池)  全然知らなかったです!

  自分のモノじゃないと捉える感性、
      大切ですよね。

(藤)  捧げたモノの〔おこぼれ〕を頂く、
      という捉え方は
     すべてに当てはまると思います。

     近代の〔所有権〕の主張とは
     真逆の捉え方ですね。

(梶) 〔おこぼれ〕という事に関しては・・・

お寺には沢山のお菓子が集まってきますので
これも 子どもたちにお裾分けしたいと
〔おてらおやつクラブ〕というものを
始めましてね、
ありがたい事に
全国に広がってきています。

子どもたちに、気兼ねなく
楽しい時間を過ごしてもらえたら・・・
とは、
つねづね思っているのですが。

(以下、後編につづく)
*******************

何も持ってない人は「たかればいい」と。

たかる人が、気兼ねなく。
提供する人も、上から目線でなく。
世話をする人もストレスを感じずに。

みんな一緒になって楽しむためには…

いったん、自分のモノを手放して、
みんなのモノにしてしまえばいい、と。

それを、ありがたく
感謝して、みんなで頂くスタイル。

そういう事ができるんですねえ。

この後のトークの続きでは、

そのスタイルが〔うまく機能する〕為の
工夫について。

池田さんが 語ってくださいました。

次回の投稿〔事例3-後編〕を
どうぞご期待ください
********************
〔今回のまとめ〕

イジリの眼〔8〕
                   →「捧げたモノは 皆のモノ。
       だから、誰でも気兼ねなく」

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