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9月20日刊『日本語ラップ名盤100』(韻踏み夫著)「はじめに」公開

2022年9月にイースト・プレスは『日本語ラップ名盤100』(韻踏み夫著)を刊行します。本書の意図やテーマが語られた「はじめに」を筆者の許可を得て全文公開します。(編集部)

はじめに

これまで、日本語ラップという音楽ジャンルは正当な評価を得てきただろうか。アメリカの猿真似? 無駄に親に感謝しているだけ? 不良自慢? 長いこと、そのような非難を浴びせられてきたジャンルである。他方で、昨今ではMCバトルがブームになり、ラップという表現自体に触れたことのある人は増えているかにみえる。たしかにラップは最新の、目新しい音楽表現のひとつであるのはたしかかもしれない。実際ヒップホップの進化はいまだにやむことがない。しかしながら、ヒップホップが誕生したのは約50年前の1973年のこと。本書で触れる一番はじめの日本語ラップ作品は1987年で35年前のものである。気づけばヒップホップも、それほど豊かな歴史と伝統をもつジャンルに成長したのだ。
 
アメリカのヒップホップについての歴史書ならば、すでに多くの優れた本が出版されている。しかしながら、日本のヒップホップ、すなわち「日本語ラップ」についての言葉はいまだにまったく足りていないというのが現状である。そこで、日本語ラップとはなにかを知りたい新しいリスナーたちのために、入門書として書かれたのが本書である。

この本は、日本語ラップの名盤を100枚選出し、年代順に並べ、それにレビューを付したもので、さらに関連盤が2作品づつ紐づけられている。言うまでもなく、日本語ラップを知るためには、優れた作品に実際に触れるのが一番早い。私の文章なんかよりも、ここに選ばれた名盤100枚たちの方が、雄弁に多くを語ってくれることは間違いない。しかし、それだけでは物足りない気持ちになることもあるだろう。そうしたときのヒントに、私の書いたレビューが役に立てば、これほどライター冥利に尽きることはない。
また、もっと他の作品が聞きたくなったら、その導線になるよう、各作品の関連盤を示し、また巻末には索引もついている。だから、この本は入門書として書かれているが、それはリーダブルですいすいと読み飛ばせて、なんとなく分かったような気持ちになるような入門書を目指して書かれたのではない。入門書といっても、教科書的であるべく書いたつもりだ。つまり、必要な情報をできるだけ詰め込み、一読した後にも、ふと立ち返ってみて復習しがいのあるような本になるように努めた
 
さて、私がどのようなことを考えて本書を書いたのか、より詳しく説明していこう。まず、初の日本語ラップの入門書を書くという重役を務めるのにあたり、私は自分が本当に適任なのかを悩んだということを白状しなければなるまい。先ほどいったように、日本語ラップには長い歴史がある。その歴史をずっと、愛をもって追ってきた偉大なリスナー、ヘッズ、ライターたちはたくさんいるのだ。そのようななかにあって、私はいわば若輩者に過ぎない。だから、私よりも多くを知る者たちが多数いるということは、率直に認めなければならない。しかし、このようにも思うのだ。リアルタイムを知らない後追い世代だからこそ、書けることがある、と。もし私が本書を書くのに有利な点があるとすれば、歴史を後から学んだ者であるということ、つまりいまから日本語ラップに入門しようとするあなたたちと同じ立場であるということである
 
100枚の選盤をするにあたっては、次のことを意識した。まず、できるだけ選者の好みを排して、多くの人の意見を参考にし、誰もが納得できるような、オーソドックスで一般的な選定基準を心がけること。次に日本語ラップの全体像を広く示すこと。定番の作品があり、王道の歴史がある。そこに反発したり、そこからこぼれ落ちるような作品がある。100枚の作品が互いに共鳴、反発し合うようなダイナミズムを演出しようとした。同じように、評価軸もさまざまである。ヒップホップとして聞くか、ポピュラー音楽として聞くか。音楽か文学か。リアルタイムでの評価と、現在の視点からの再評価。日本での評価と世界からの評価。私はどれかひとつに絞らずに、できるだけ多角的な評価軸を導入するようにした。
 
レビューを書くに当たって意識したのは、まずは個別的であるよりも概略的であるよう書くことだった。作品それ自体について緻密に語ることの重要性は承知しているつもりだが、ここではそれよりも、周辺情報を多く共有しておくことを選んだ。誰かが一度、文脈を整理することが必要と思われたからだ。作品が、日本語ラップ史的に、政治的に、社会的に、音楽的に、文学的に、どのような場所にあるかを、ひとまずおおざっぱにでも定めたかったのだ。そしてそれが100枚分積み重なるなかで、ある程度の日本語ラップ史が浮かび上がること、それを最大の目標にした。日本語ラップ史と呼べる本はいまだ出されていないからである。
 
また、この本を書くにあたって、大量の資料に当たったことも話しておくべきだろう。主要参考文献を付しているが、そうした雑誌や書籍以外にも、ネットの記事、個人ブログなども手当たり次第に読んだ。オーソドックスな日本語ラップの入門を目指してのことである。私はいわば、それらをまとめ、要約しただけに過ぎないともいえる。作品がどのように受容されてきたかという歴史を、私は尊重したかったのである。
 
とはいえ、私自身に固有の考えがないわけでは、もちろんない。私は日本語ラップを愛しているつもりだし、日本語ラップについてずっと思考してきた。それをふだん私は、批評というかたちでアウトプットしている。批評とはなにか。読む人の考えや世界を変える文章のことだと私は思う。世界を根本的に変えることを革命という。だから批評とは革命的な文章のことだ。世界は革命されなければならないというのが、私の批評家としての立場だが、現在もしも革命がありうるとすれば、それはヒップホップ抜きには考えられないだろう。それほど、この世界におけるヒップホップの役割は重大だと考えている。その確信がもてないのなら、私はいますぐにでもヒップホップを聴くのをやめてよい。もちろん日本語ラップもまた、根源的には革命的な音楽だと私は疑っていない。革命の一語を常に横に置いて日本語ラップを聞くということもまた、私が本書に課した使命であった。もしも、あたう限り中立を期した本書に目に余る偏りがあるとすれば、それはひとえにこの政治主義によるだろう。
 
細かな話をしておくと、まず、アーティスト名、作品名、曲名、クレジットなどの情報の表記の仕方(たとえばアルファベットかカタカナか、など)や、収録曲自体のバージョン違いは、なにか機械的な基準を設けずに、適宜一般的と思われる方を選んだ( ただ、「TRACK LIST」の表記はみやすさを重視し表記を統一している)。初版のCDやレコードが正規の表記なのか、再発の方が一般的か、ネットやサブスクリプションの検索がしやすい方を選ぶべきかなど、都度悩んで選択したものである。また、歌詞の引用については、基本的に筆者の聞き起こしであることを断っておく。
 
最後に繰り返すが、本書は日本語ラップ作品に実際に触れてもらうための道具に過ぎない。RHYMESTERの宇多丸は、ヒップホップの力を次のように考えていた。ラッパーは自分のこと、「一人称」的なことばかりを歌う。こちらが尋ねたわけでもないのに。しかしその自分語りは強烈に魅力的である。リスナーはそこからなにか、力を贈与されるのだ。その体験が、あなたの身体、心になにか痕跡を残す。その痕跡が、あなたを踊り出させるかもしれないし、あなたを新たなラッパーにするかもしれない。そして今度はあなたが起こしたアクションが次の人に連鎖していき……。このような絶え間ない運動がヒップホップだという。本書がその連鎖の輪の、どこか隅っこにでも加われていることを私は最も願っている。

※ 太字強調の箇所は書籍より本記事用に変更しています。

韻踏み夫(いんふみお)
ライター/批評家。1994年生まれ。連載「耳ヲ貸スベキ――日本語ラップ批評の論点」(『文学+WEB版』2021年~)、「ライマーズ・ディライト」(『ユリイカ』2016年6月号)、「ライミング・ポリティクス試論」(『文藝』2019年冬季号)など。本書が初の単著となる。


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