黒山羊の食卓(後編)

「なるほど、ここが生産地ってわけだ。植えれば次の日にはできるってのは、こういうことか」
 颯太が周囲を見回しながら言った。確かに、これほど広大な土地があり、作物が一晩で実るのであれば、あとは配給量さえ調節すれば食事に困ることはないわけだ。そしてそんな無茶苦茶なサイクルを可能にしているのが、「女神」なのだろう。「豊穣の女神」とは程遠い異形ではあったが。
「随分と歩くことになりそうですが、大丈夫ですか」

「死ぬほど疲れてる。でも泣き言なんか言ってられねえだろ」
 強い口調ではあるが、顔色は悪い。辛いのは体だけではないだろう。恐らく精神的なショックに折れないように、わざと強い態度を装っているはずだ。
「君は、何故女神と戦おうと思ったのですか」
 こういった会話が、精神的な負荷を和らげることがある。居住区の灯りが見える方に歩き出しながら、神薙は颯太に問いかけた。
「色々あるが……いや、元を辿ればやっぱり、妹同然の幼馴染と引き離されたのが原因だろうな」
「その人も、晩餐に?」
「いや、生きてはいるはずだ。そいつは昔から……霊感っていうのか? 他人には感じられないようなものがわかる感覚を持ってた。それでどうのこうの言われて、管理階級の人間の養子にさせられたんだ。それから俺は、祈りだの徳を高めるだの、そういうことに身が入らなくなって、ボケっとして生きてきた。でも、由香里に見せてもらえてわかった。俺は、あいつと引き離されて悲しかったんだって」
 その感覚は、神薙も長いこと痛感した。
「あんただって、嫁さんをあの化け物に喰われた。それを悲しんだら異常者扱いされて病院にぶちこまれたわけだ。そんな世界、絶対に間違ってる」
 一陣の風が吹き、頭を垂れた穂がざわざわと音を立てる。
 その合間から、くすくす、と笑い声が聞こえた。
「何者だ!」
 小麦色の波の中に投げかける。それは静かに、同じ方向に揺れ続けている。不自然な動きはない。
「なんか、いたのか?」
「いえ、笑い声が聞こえたような気がして……」
 颯太には聞こえなかったようだ。もしかしたら、神経が過敏になりすぎて雑音を聞き間違えたのかもしれない。
 勘違いだったようだ、と言おうとして、首に刺すような鋭い痛みが走った。咄嗟に振り払うと、一瞬首から血が噴き出す。傷口から重力に従って流れていく血がシャツに染み込み、皮膚にべったりと張り付いた。
 一つだけだった笑い声が、二つ、三つと増えていく。輪唱するかのように重なって、右も左も、天も地も笑い声に包まれる。三半規管が壊されそうだ。平衡感覚を失いかけ、地に足がついているかすら疑わしくなっていく。眩暈と吐き気に襲われて、今にも崩れ落ちそうだ。
 神薙は首の傷に爪を立てた。それなりに深く刺されたのか、指先が傷口に入り込んで、肉の触感がした。首から脳髄に激痛が走って、呻き声が漏れる。意識が明瞭になり、視界もはっきりした。改めて、襲撃者の正体を確かめようと視線を巡らせる。
 虚空に、血管が浮いていた。

 気が狂ってしまったのかと思った。少年時代に、本物の遺体から樹脂で型を取って作られたという、人体に巡る血管を可視化した模型を見たことがある。まるで赤い毛糸の集合体のようなあの模型が、そのまま宙に浮いているようだった。笑い声を上げて血を吸い取ろうとする、姿の見えない何かに周囲を囲まれている。
「首を守ってください。駆け抜けるしかない」
 颯太の手を引き、丈の長い作物が茂る畑へと飛び込む。身を隠す効果が期待できるかはわからないが、このまま道なりに走っていても先回りされる可能性が高い。
 作物を薙ぎ倒しながら、全力で駆け抜ける。笑い声が徐々に遠ざかっていく。幸い、足は速くないようだ。このまま逃げ切れるかもしれない、と思った瞬間、また近くで笑い声が重なった。一瞬で移動してきたのかと思ったが、後方の笑い声は絶えていない。恐らく、単純に数が多いのだ。もしかしたら彼等は、この広大な「生産地」の番人なのかもしれない。自
分達は、厳重な警備の真っ只中に来てしまった可能性がある。

 体力は無限ではない。数の暴力に晒され、この広大な領域を走りきることはこのままでは不可能だ。そしてわかりやすい殺気や異臭を伴わない分、先ほどの青い煙よりも襲撃を予想するのは難しい。
 血を吸い尽くされて干からびた自分達の死体が地面に朽ちていき、この作物の肥料になると考えると、ぞっとした。
 万事休すか──そんな言葉が頭をよぎった時、鳥の号令のとも、獣の遠吠えともつかない甲高い鳴き声が、夜空を切り裂く様に響き渡った。
 一瞬で周囲の作物が円周上に薙ぎ倒され、二人を嘲笑っていた声が断末魔のような金切り声に変わる。
 再び静寂が戻ってきた大地に、羽ばたきの音だけが残った。二人の前に、一頭のビヤーキーが静かに着陸する。すっかり翼を畳み、行儀よく立っている姿から、敵意は感じられなかった。
 ビヤーキーは颯太に頭を下げる。嘴には何かを咥えているようだ。
「それは……」
「手紙、か? どうして俺に……」
 言いかけた颯太は、手紙と共に嘴に咥えられているものを見て顔色を変えた。ニット帽だ。
「十波だ! さっき話した、俺の幼馴染だ! このニット帽は、別れるときに俺があいつに渡したやつだ、間違いない!」
 颯太は丸められた紙を広げる。そこには一目見て若い女性が書いたと見て取れる、丸い筆跡の文字でメッセージが書かれていた。
『女神の祭壇に入ったのが颯ちゃんだって皆が言ってます。本当なの? わけがわからなくて心配です。会って話したい。黄の尖塔で待ってます。この子に乗ってきてください。 十波』
 手紙の内容に、今度は神薙が蒼褪める番だった。
「急いで橘先生の元に行きましょう! 先生が危険です!」
「由香里が?」
「女神に接触したのが我々だということが既に露見しているということは、私と君の共通の主治医である橘先生に疑いがかかっているはずです!」
 それを聞き、颯太も弾かれたようにビヤーキーに飛び乗った。ビヤーキーは至って大人しく、示された方向へ真っ直ぐに飛び立つ。瞬く間に作物が実る領域を越え、病院がある中層に到着した。
 ビヤーキーから飛び降り、橘に教えられた経路を通って診察室に向かう。扉を開けた瞬間、鉄の臭いが鼻を突いた。電灯を灯す。
 部屋は一面、真っ赤に染まっていた。デスクの上には、橋の上半身があった。下半身はその下の床に力なく落ちている。上半身から溢れ出した臓物が血を滴らせながら、だらりと垂れ下がっている。その様は、あの広間で天井からぶら下がっていた女神の脚によく似ていた。
 遅かった、と呟いたのは、よろめきながら壁に凭れ掛かった颯太か、呆然と立ち尽くして、いた神薙のどちらだったのか。
 このやり方は、恐らくあの青い煙だ。捕らえるだけでも良かっただろうに、わざわざ彼女を殺して死体を此処に残したのは、あの女神の御子の意向だろう。この無惨な姿を突きつけ、恐怖を植え付けてから今度は二人を追い詰めるつもりだ。あれは悪意のない少年などではない。人間に仇為す、邪神の徒、或いは猟犬だ。
 様々な感情が胸中に渦巻く。だが、嘆いている時間はない。此処に留まっていれば、自分達にまですぐに彼の手が届くことだろう。すぐに立ち去り、今後のことを早急に考えなければならない。
 だがせめて、橘の体くらいは整えてやりたいと思い、神薙はデスクに近づいた。彼女の傍らには、あの「機械」が無傷で残っている。精神医学の権成として高名な彼女の治療法を、体制側が知らないはずがない。なのに何故、これには触れなかったのだろう。なにもわからないが、とにかくこれが無事であったということは幸いではあった。
 上下に分かれた橘の体をソファに横たえ、機械を抱えて外に出る。
 ビヤーキーは律儀に、大人しく座って待っていた。しかし、二人の姿を見ると、突然短く鳴いて、後ずさるような動きを見せる。いや、よく観察するとその目は神薙が抱えた機械を睨んでいた。
 この機械の何が気にかかるのか、と改めて見てみると、丁度ビヤーキーに向けていた面に、奇妙な図形が描かれていた。円の中に歪んだ五芒星、更に、星の中央には目がついている。
 所々掠れていることから、橘が今際の際に自らの血で描いたのだろう。どうやらこの印が気になるらしく、隠してやると警戒した様子は残したものの、すんなりと背に乗せてくれた。
「あんた、隠れる当てはあるか。俺は尖塔に行く」
 掠れて震えた声で、颯太が言った。
「罠かもしれません。私が一人で行き、指定された時間までに戻らなければ……」
「俺はあいつを信じる」
「彼女に悪意がなくとも、囮にされているという可能性もあります」
「十波を取り返したいのは俺の都合だ。あんたが死ぬ道理はねえだろ」
「生きる理由もありません。この世界には、もう妻はいないのですから」
 颯太に比べて自分が比較的冷静に動けているのは、年の功だけではなくそれが理由だろうと神薙は思った。妻はあの化け物に喰われ、思人である橘も犠牲となった今、神薙を生かしているのは、女神を僭称するあの化け物に対する意趣返しをしてやろうという、意地の悪い欲求だけだ。この上に颯太まで失ったら、あとはもう化け物と刺し違えるしかない。
「君が彼女をそれほどまでに信じるというなら、私は君を信じましょう」
 ビヤーキーの鼻先を聳え立つ尖塔に向けると、風を切って真っ直ぐに飛び立った。空が白み始めている。夜闇が去ってしまえば、思い切った動きをすることは難しくなる。もはや一刻の猶予もない。
  これまでの経験を踏まえ、念のため尖塔の周りを一度旋回する。何者かが潜んでいる様子はなく、今のところ笑い声も聞こえない。異臭も無しだ。意を決して、二人は塔に降り立った。
 尖塔の中心に、一人の少女がぽつんと立っていた。もし颯太が駆け寄ろうとしたら制止する必要があるかと考えていたが、彼よりも少女の方がこちらを見るなり駆け寄ってきた。
「颯ちゃん!」
 十波という名の少女は、颯太よりやや年下のようだった。恐らくは、女神の御子と年齢自体は同じくらいかもしれない。
「ねえ、何があったの? 本当に颯ちゃんが女神の祭壇に入ったの? 一体どうなってるの?」
 彼女は颯太にしがみつき、堰をを切ったように捲くし立てる。
「落ち着け。一言じゃ言えねえんだ、順番に説明する必要がある。まず、この世界は間違ってる。俺達は、本当は女神に従って生きるはずじゃなかった。俺達は自分の意志で、自由に生きるはずだったんだ。そもそもこの世界を支配してるのは女神なんかじゃない、化け物だ! 俺達は化け物が無限に垂れ流してるこれを、培養肉として食わされてる」
 颯太がジャケットの中から、女神が垂れ流していたあの肉塊を取り出した。女神の御子に投げ渡された際に酷く怯えたように見えていたが、本来の目的を果たそうと、意地で持ち出したのだろう。その肉塊は長時間に渡って連れ回されたにも関わらず、弱った様子もなくしきりに蠢いている。それを見て、十波は短い悲鳴を上げた。
「これを、女神様が産んでるの?」
「そうだ。お前も、女神を見たことがないのか?」
「うん……女神様に近づけるのは、亜紀人君だけだから」
「女神の御子のことですか?」
 神薙が問うと、少女は目を丸くする。颯太に会えたことに夢中で、こちらに気が付いていなかったのだろう。
「おじさん、誰?」
「馬鹿、お前!」
「構いませんよ」
 何分、四十に手が届く身だ。
「亜紀人という人物は、女神の御子のことですね?」
「うん……私達が女神様を直接見ると、力の強さに耐えられなくておかしくなってしまうんだって。でも亜紀人君は、女神様の前で生まれたから、女神様を直接見ても大丈夫みたい」
 確かに、あの姿を見たら誰でもショックを受けるだろう。だから街中には美しい女性の姿で描かれた女神がやたらと配置されているのだ。だが、女神に接触し管理する人物も必要になる。亜紀人という少年は、そのためにいるのだろう。
 それにしても、彼といい今目の前にいるこの少女といい、どうも年齢よりも幼げな言動をしているのが気にかかる。言うことを聞かせやすくするために、意図的にそう教育されているのかもしれない。だとしたら、吐き気がする話だ。
「ねえ、颯ちゃんが言ってる世界って、夢見の世界のことかな?」
 不意に、十波が言い出した。
「夢見の世界?」
「女神様が世界を救ったとき、女神様に反対した人間が世界を二つに引き裂いてしまったから、この世界は不完全なんだって。もう一つの世界には神がいなくて、人間がお互いに争い合っている世界だから、女神様が救済して世界を完全にしなきゃいけないって。私達は、そう教わったの」
 衝撃のあまり腕の力が抜けて、神薙は思わず抱えていた機械を落としかけた。化け物は、もう一つの自由な世界すらも侵食して支配しようとしている!
「でも、颯ちゃんはどうして夢見の世界のことを知ってるの?」
「俺はお前と別れた後、信仰に対して真面目じゃない、頭がおかしいって病院にぶち込まれたんだ。そこで会った医者が、どういう理屈かはわからねえがその夢見の世界とやらを見れる機械を作った。これがその機械だ」
 颯太に視線を送られて、神薙は十波にその機械を差し出す。途端、十波は大きく体をびくつかせて後ずさった。
「私、これ触れない……!」
「どうした?」
「私、ハスターの巫女だから……この印、触れないの……」
 ハスターの巫女、と聞き合点がいった。ハスターは、黒き女神の同盟者として伝えられている風の神だ。ビヤーキーはハスターの眷属であり、忠実な僕と言われている。亜紀人が女神の御子であるように、彼女はハスターの巫女であるから、ビヤーキーと心を通わせ、細かい命令ができたのだろう。そして、ビヤーキーがあの時、橘が残した血の印を見て落ち着きを失った理由もこれでわかった。
「この印は、私達に協力してくれいていた方が何者かに襲われ、死の間際に残したものです。これは一体、どういう力を持っているのですか?」
「それは、古の印。神に対立する人間が作り出した武器。ハスターはこれに特別に弱いの」
「では、女神にもこの印は有効なのですか?」
「ううん。ハスターが何故か特別に弱いだけで、女神様には通じないと思う。通じるのは神の僕。神に仕えている存在になら、ビヤーキー以外にも通じる。でも、その人はどうして知ってたんだろう……? とりあえず、その印、隠していて欲しいな……」
「失礼しました。ですがおかげで重要なことがわかったようです、ありがとう」
 彼女に配慮して、神薙は機械に上着を被せた。
「その機械で、夢見の世界が見れるの?」
「ああ。俺はこの機械に繋がれて、平行世界での俺を視た。そこでは俺とお前が、あの頃と変わらずに、二人で助け合って暮らしていた。引き離されることなく、俺達の意志で住むところも、生き方も決めることができる世界だ」
「颯ちゃんと、暮らせる世界……」
「私も、その世界を視ています」
 どうやら言動は幼いが、話は通じるようだと判断し、神薙も説得に加わる。
「ここにいる私は、妻を女神の晩餐に捧げました。妻は病弱で、子供が産めない体質だったために選ばれたのです。ご存じのとおり、家族が女神の晩餐に選ばれるということは大変名誉とされていることです。私も、一市民から管理階級に格上げされた。けれど私は、少しも幸せではありませんでした。いや、今なら言えます。私は妻を失って、「悲しかった」。平行世界での私と妻は、子供が産めないことを非難されることもなく、二人で幸せに暮らしていました。私も、そうやって生きたかった」
「悲しい……」
「十波さん、貴方は颯太君と引き離された時、どんな気持ちでしたか? 神の巫女に選ばれて、嬉しいと思いましたか?」
 十波はしばし考えこんでいたが、徐々に俯きがちになり、ついには顔を覆って泣き出してしまった。
「私、ずっと悩んでた。巫女になれるのはすごいことだって、人の役に立つからえらいんだって皆から言われて……でも、私ずっと颯ちゃんのこと忘れられなかった。だから私は、本当は悪い人間なんだって……でも、私、悲しかったんだ。間違ってなかったんだね。颯ちゃんと一緒にいたいって思う気持ち、悪いことじゃなかったんだね……!」
 十波は颯太にしがみついてひとしきり泣くと、やがて落ち着いたのか深呼吸をして鼻を啜った。
「私、颯ちゃんと一緒に行くよ。これからどうすればいいの?」
「それが問題なんだ、どうにかして世界中に女神の正体を暴露できればいいんだが……」
「その機械で、夢見の世界を見たんでしょ? 皆にも見てもらえばいいんじゃない?」
「これは頭に取り付けて使うものなので、広範囲には使えないのです」
「頭に……もしかしたら、一時的に脳を活性化させてるのかな」
「なんだって?」
 突然雰囲気に似つかわしくない言葉を口にした彼女に、颯太は面食らう。
「私達巫女は、他の人と脳の発達の仕方が違うんだって。その発達した場所を使っているから、神と交信できるの。だから、脳に刺激を与えて私達と同じ部分を活性化させて、本当は見えないはずのものを少しだけ見えるようにしてるのかなって。機械を見てもいい? 印は消してもらわなきゃいけないけど……」
 血で描かれた印はするりと落ちた。十波はいとも簡単に中身を分解し、慣れた様子で調べている。
「お前、機械がわかるのか?」

「機械っていうか……電気の流れのことならわかるの。私の役目は雷を呼んで、電気を溜めることだから」
「雷を呼ぶ……まさか、この世界に嵐が定期的に来るのは、貴方が呼んでいたということですか?」
 神薙の言葉に、十波は頷く。
「そうだよ。雷を落として、電気を溜めて世界に回してるの」
 つまり、この世界はほぼすべての生活基盤を邪神達に任せているということになる。女神に餌を与えられ、神によって管理される。そんなのは、家畜の生活ではないか。
「やっぱり私の思ったとおりみたい。これなら電波を増幅させて、街中に拡散させることはできるけど……」
「どうした?」
「多分、女神の力で妨害されちゃう。この土地そのものに女神の力が行き渡っているから」
 確かに、大量の作物を異常なサイクルで成長させるほどのエネルギーを与えられた土地だ。全体が汚染されているとしても不思議ではない。
「それをやるなら、あの化け物をどうにかしなきゃならねえってことか……だが、あんな化け物、殴ったところでどうにもならねえだろ」
 颯太が頭を抱える。神薙は情報を整理してみた。
 女神がいた広間には水が流れていた。そして、女神が産んだ肉塊が培養肉と銘打って食用に提供される。
「くそ、腹が減って頭が回んねえ」
 肉体的、精神的疲労もあってか、そう呟きながら颯太は地面に座り込んだ。
「食べてないんじゃないかなって思ってご飯持ってきたけど……食べたくないよね……」
 十波が開けたバスケットには、こんがりと焼かれた培養肉が入っていた。病床でも、焼かれたこれを食べていた。橘が正体を知ったらどう思ったことだろう──。
「そうか、火だ」
「なんだって?」
「火種はありますか?」
 神薙の突然の提案に颯太は戸惑ったような表情を見せながら、オイルの切れかけたライターをポケットから取り出して手渡した。神薙はそれを受け取ると、先ほど颯太が十波に突きつけた肉塊に近づける。肉塊に火が燃え移ると、逃げるようにバタバタとのたうった。
「女神の弱点がわかりました。火です。考えてみてください、食用肉が焼かれた以外の状態で提供されているのを見たことがありますか?」
「……いや、ない……そうか、だから広間に水を引いてたのか!」
「水の流れを止めることができれば、可能性はあります」
「それなら、私ができる」
 十波が申し出る。

「私はハスターと交信して雷を呼ぶから、落とす場所も強さも操れるし、動力源の場所も知ってる」
「それならば、あくまで可能性の範囲ですが、勝ち筋が見えたかもしれない」
「他に方法があるとも、思いつくとも思えねえ。あんたの賭けに乗るよ」
 東の空が赤くなってきた。もう時間がない。手早く段取りを決める。十波が雷を呼び、颯太が機械を操作する。そのために、神薙は女神を火炙りにかけなければならない。
「神薙サン」
 神薙がビヤーキーに跨ると、不意に颯太が呼び止めた。
「あんたがいなかったら、俺はここまで来れなかった。本当に、感謝してる」
 事態がどう転ぶかわからない以上、これが今生の別れになるかもしれない。それを理解して、彼はそう言ったのだろう。
「私も一人であれば、ここまでできたとは思えません。それに少しの間でしたが、息子を守る父親の気持ちを味わうことができました……ありがとう」
 久しぶりに、心の底から、自然に、笑った。

 記憶に新しい道を征く。違うのは、今度は一人だということだ。
 白夜行を続けた体は悲鳴を上げている。悍ましい者共を見て、恩人を失った精神は疲弊しきっている。それでも、どんな形であっても終焉が近づいているという事実を杖にして、神薙は動き続けていた。
 広間を進むと、徐々にあの異臭が漂ってきた。同時に、青い煙が放っていた悪臭も混じってくる。
 黒い肉の塊の前に、御子は──亜紀人は座っていた。
「あ、悪い奴だ」
 青い煙を使役し続けたせいで眠っていないのか、欠伸混じりに彼は言う。
「君の話を訊きたくてやってきました」
「いいよ。どうせお前この後死ぬし、何?」
 その様子に、皮肉を込めた印象は感じられない。寧ろ自分のことを話したくて仕方ないという風に急かしているようにすら思えた。
 橘の亡骸を見た時、彼は悪意が人間になったようなものだと思っていた。しかし、もしかしたら、悪意というものはないのかもしれない。橘を先回りして殺害したのも、自分の力を誇示するために過ぎなかったのかもしれない。あたかも子供が、親に描いた絵を見せに来るように。
「君は、幾つになるのですか。 今までどんな風に暮らしてきたのですか」
「えっと……十七かな。俺はね、この場所で産まれたんだ! 産まれた時からずっとこいつと一緒にいるから、こいつに近づけるのは俺だけなんだよ。だから俺は特別扱いされてるんだ!」
 そう語る彼は、十七という歳より随分と幼く見えた。やはり、十波と同じように、意図的に偏った分野に特化し、かつ従わせやすいように、生育を歪められていたのだろう。こんな世界でなければ、一体どんな少年に育っていたことだろうか。
「退屈に思ったことはないですか。外の子と同じように暮らしたいと思ったことは?」
「別に、やることやれば遊んでたって怒られないし、欲しいものがあったらなんでも買ってもらえるし。それに、俺は他人と同じ生き方とか嫌だよ。つまんないじゃん」
 吐き捨てるような言い方からは、肥大した自意識が感じ取れた。悍ましい場所で産まれ、閉鎖された環境で育てられて無限に肥大したそれは膨らみ続け、きっと彼も話の通じない怪物になってしまったのだろう。
「あんただって、良い暮らししてんだろ? 何が気に入らないの?」
「人として生きられないことです。悍ましい怪物が産んだ肉を食わされ、生活の全てを侵略者に征服され、管理される。そして用が済めば、怪物に喰われる。そんな生活は人間のものではない。我々は、それの家畜ではない」
 神薙は天井からぶら下がっているそれを指さした。
「別に喰われるのはお前じゃないじゃん。決まってるよね、条件」
「そう、私の妻は、それに喰われた。そして妻を失った私は、その条件に基づいて次なる犠牲者を選ぶ仕事をすることになった。もうこれ以上、人間が怪物の食卓に送られるのを、黙って見ているなんてうんざりだ!」
「よくわかんないや」
 彼は興味を失ったように言った。青い煙の放つ悪臭が強くなる。
「つまんないから、死んでいいよ」
 いよいよ怪物よりも煙の臭いの方が強くなった。しかし、神薙は堂々と其処に立ち続けている。
「なんで? なんでティンダロスが動かないの?」
 想定外の出来事に、少年はわかりやすく狼狽えた。神薙は怪物を指していた手をくるりと反転させる。その腕には、あの古き印が切り傷として刻まれていた。消えない印を描くなら、神薙とってはこの方法が一番だった。
「エルダーサイン……作り話にしたはずなのに!」
 亜紀人が叫んだ瞬間、空間が揺れ、世界は暗闇に包まれる。水の音が止まった。
 神薙はガソリンが入った容器を蹴り倒し、ライターを投げた。暗闇の中で、火が一直線に駆け抜けたかと思うと、巨大な火の塊が虚空に現れた。
 再び空間が振動する。途端、視界にあの穏やかな風景が広がった。十波と颯太が上手くやってくれたようだ。
 目の前には、幸せそうに微笑む妻が立っている。
「守れなくて、ごめん」
 涙が落ちたと同時に、妻の姿も見えなくなった。
 炎が辺りを照らしている。床には、崩れ落ちた亜紀人の姿があった。

「なんで……なんでお前が平行世界を知ってるんだ!」
 獣の咆哮にも似た怒鳴り声が投げつけられる。
「あんな世界いらない! 俺はここじゃないと、幸せになれないのに!」
 まるで、平行世界での自分をもっと前から知っているかのような言い方だ。
「自分の本来の姿を、知っていたのですか?」
「ああ知ってるよ! 俺はあっちじゃ、クソみたいな親に育てられて、底辺を這いずり回って生きなきゃいけないんだ! ここなら、皆俺をちやほやしてくれる、褒めてくれる! だから、このままでよかったのに……なんで余計な事したんだよ!」
 床に伏して嘆く亜紀人の叫びを聞いて、初めて神薙は気が付いた。いや、今まで何故気づかなかったのか。急いで地上に戻る。
 暗渠から出ると、太陽の下で、人々が殺し合っていた。
「今まで偉そうにしやがって!」
「女神なんかいなきゃ、俺達はもっとまともに暮らせたんだ!」
 管理階級の人間一人を複数で寄ってたかって私刑する者達。
「向こうの方が幸せだなんて、そんなのそっちの勝手だろう!」
「あんな生活しなきゃいけない世界より、こっちの方が幸せなのに!」
「お前らは上級市民だからだろう!」
「俺達下層市民の気も知らない癖に!」
 集団で罵り合いながら、二つに分かれて争い合う集団。
「子供と同じ目に合わせてやる!」
「家族を返せ! 何が女神の晩餐だ! 人殺し!」
 神薙と同じ境遇であろう者達が、管理階級を八つ裂きにして惨殺する。
「信仰のない暮らしなんて生きていけない!」
「信心深く暮らしてきたから認められていたのに……」
「一生昇格できない世界なんて絶対に嫌!」
 上級市民達が絶望し、嘆いている。恐らく平行世界では恵まれない暮らしをしているか、満足できる地位ではないのだろう。
 何故ずっと気づかなかったのだろう。神薙は自問する。
 神がいない世界なら、個人は自由に、自らの意志で人生を選択できる。家族の命を捧げることもなく、結婚して子供を産むことを強制されることもなく。そうやって自由に生きることが、無条件に幸せなのだと信じていた。
 だが、こちらでは妻を失い、平行世界では妻と幸福に暮らす自分がいるのだから、逆の境遇も当然あって然るべきなのだ。女神への強い信仰心によって上級市民や、管理階級になった者が、平行世界では恵まれない生活を送っていることも、当たり前にあり得たのだ。なのに、それに全く気が付かなかった。自由こそが、間違いのない幸福であると信じ切っていた。
 荒れ果てた街を、当てもなく延々と彷徨う。見知った死体があった。結城が、首から大量に失血して死んでいる。その手にはナイフが握られていた。恐らく彼女も、向こうでは不幸な境遇であったのだろう。
 延々と歩き続けて、やがて世界の端まで来てしまった。世界を囲い込んでいた壁が壊れている。
 その向こうにあったのは、どす黒く濁った海面だけだった。汚れた色をした水面であるのに、何故か水の中が見える。海の中に都市があり、魚と人間を合成したような生き物が何食わぬ顔をして生活していた。
 そして水平線の向こうには、非ユークリッド幾何学的な、歪んだ無軌道な形をした巨大な城が、蜃気楼のように浮かんでいた。
「馬鹿馬鹿しい」
 崩れ落ちた神薙の体は、真っ黒な波の中に消えた。

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