バステトからの使者(前編)

 畜生、なんてこった。
 男は一人、自動小銃を抱えて走っていた。仲間は全滅だ。全員化け物どもに引き裂かれるか、食い殺されるかしてしまった。
 だから平行世界の探索なんてごめんだって言ったんだ。
 男は内心で毒付く。
 もう一つ世界があったとして、それがこちらに都合の良い世界だとは限らない。案の定、こちらにとって最悪な世界だった。いや、この世界ばかりではない。「全ての人類にとって」考え得る最悪を具現化したような世界だ。
 これが際限なく自分達の利益を拡大しようとする人間に対する神の天罰だと言うならば、喜んで地面に這いつくばり土下座して懺悔をし、思いつく限りの言葉を並べて赦しを乞おう。しかし、男を助ける神も、罰する神も存在しない。
 遠くでサイレンのような、女の悲鳴のような声が聞こえる。追跡者達の禍々しい鳴き声だ。ここまで迫ってくるのも時間の問題だろう。
 死んでたまるか。男の懐にはこの世界のテクノロジーについて記された本が忍ばせてある。潜入先で拝借したものだ。文字通り、こんな死ぬ思いをしているのだ。これを持ち帰り、報酬として特別手当を貰わないと割りに合わない。金さえ貰ったらこんな仕事など辞めてやる。
 もはや限界に近い体が大量の酸素を欲して、喉がヒューヒューと鳴っている。
 酸素不足で暗くなりかけている視界の中に、桃色に輝く光が映り込む。生きて帰れる。
 光に手が届いた瞬間、視界が凄まじいスピードでぐるぐると回った。
 こんな時に目眩を起こしたのか、早く立ち上がらなければと焦る頭とは裏腹に、体が少しも動かない。いや、体の感覚がない。
 男の目に、ヨタヨタと走る首の無い自分の体が映った。目の前で上半身と下半身が切断される。上半身だけは慣性に従い、桃色の光の中に滑り込んでいった。
 鋭角だらけの名状し難い形態をした塔のあらゆる先端から、青い煙が次々と立ち昇っては男の下半身に群がる。
 男が最後に見たものは、自分の下半身と、上半身が撒き散らしていった臓物を、群がる青い煙に食い荒らされる光景だった。

 文化祭の準備に手間取ってしまったせいで、すっかり時間を取られてしまった。夕日はもう沈みかけている。制服を着替えるのは後回しにして、左手で柄杓を突っ込んだバケツを持ち上げる。右手にはささやかながらも華やかな小さな花束を。駅前の花屋であつらえてもらったものだ。
 バケツを取るために屈んだ拍子に、何かが床に落ちた音がした。首が少し軽くなっている気がして、ブラウスの上から胸元に手を当ててみる。ごつごつとした感触が無い。
 床を見渡してみると、やはり母親から貰ったペンダントのヘッドが落ちていた。ヘッドには桃色の石が埋め込まれており、少し重い。金具から外れて、ブラウスの襟元から滑り落ちてしまったのだろう。最近金具が経年劣化で脆くなっているのかよく落ちるので、そろそろ修理しないといけないな、と思っている。
 襟元からペンダントの金具を引き出し、きつめに留め直す。明日辺り時間ができたら、新しい金具を買いに行こう。そう思いながら改めてバケツと花束を持ち、玄関を出た。
「あら、まやちゃん。こんな時間にどこ行くの」
 向かいの家に住む婦人が声をかけてきた。向こうは買い物帰りだろう。
「お墓参りに行くの。今日はミミの命日だから」
「もう暗いから明日にしたらどう? 最近なにかと物騒だし、今朝だってまたバラバラ死体が見つかったって言ってたじゃない」
 婦人は心配そうに眉を下げる。
 言われて、今朝朝食をかき込みながら聞いていたニュースを思い出した。ここ数週間、立て続けに起きているバラバラ殺人。日本各地で起きており、当初はそれぞれ別の時間だと思われていたが、傷口などから全く同じ手口であると判明し、その謎と、被害者の凄惨な状態から世間を恐怖に突き落としてしまった。
「大丈夫。すぐ近くだし、そんなに人気のないところは通らないから」
 十分気をつけるのよ、という彼女に軽く手を振り、日月まやは霊園への道を早足で歩き出した。
 この住宅街を東に抜けて隣町へ行くと、大規模な動物霊園がある。そこには一年前に死んだ飼い猫、ミミが眠っている。本当は家に骨壷を置いておきたかったが、この先またペットを迎えたときに骨壷だらけになってしまっては困ると言うことで、霊園の一角を借り上げたのだ。
 尤も、この一年で状況は大きく変わってしまった。流行り病の影響で父は急遽海外に赴任し、母は介護が必要になった祖母のためにしばらく田舎へ行くことになり、ペットどころではなくなってしまった。
 正確に言えば、恐らく両親は反対しないだろうが、自分一人でペットを迎える自信がなかったのだ。
 こんなことなら、やっぱり家に骨壷を置いておくんだった。そう思いながら霊園に足を踏み入れる。
 最も北側の片隅に、借り上げた墓標がある。すぐ隣はフェンスで仕切られてはいるが住宅街で、常に人の気配がある。不審者が来るとしたら目の前の竹藪の中からだろうが、竹はぎっしりと寄り添うように群生しているから、人間が通るには苦労するだろう。
 向かいの婦人の言うことを気にしたわけではないが、やはり世間を騒がせている連続バラバラ殺人の話が全く頭にひっかからないと言えば嘘になる。用心に越したことはない。
 付近に立てかけられていた竹箒を拝借し、すっかり積もってしまった落ち葉を掃く。夏を超えて好き放題に伸びた雑草も抜いておく。隣の墓標も随分と荒れていたので、一緒に手入れをしておいた。
 一通り墓標を綺麗にして、ようやくまやは一息ついた。霊園には定期的に通っているが、やはり気持ちとしては命日を蔑ろにしたくはなかったのだ。なんとか墓参りを済ませることができて安堵する。ふう、とため息を漏らして手を合わせた。
 途端、目の前の竹藪がガサガサと騒ぎ出した。風はない。
 咄嗟に懐中電灯で竹藪を照らしたと同時に、中から影が踊り出してまやの足元に取り付いた。悲鳴を上げて、灯りを足元に移す。
 足元には、一匹の猫が蹲っていた。なあんだ、と言いかけて、まやははっとする。黒と茶色の毛が混じり合ったその錆猫は、今まさに目の前の墓標の下で眠りについているミミの生き写しと言っていいほどそっくりだったのだ。黒と茶色の毛量の配分、複雑なグラデーションとマーブル模様に、こぼれ落ちそうなほど大きなまんまるな瞳。
「びっくりした……あなた、ミミにそっくりね」
 撫でようと手を近づけても逃げる様子は見られない。寧ろ目を細めてゴロゴロと喉を鳴らしてさえいる。随分と人馴れしているようだ。首輪もしているし、恐らく飼い猫なのだろう。
「もう遅いから、早く帰りなね」
 それはまや本人にも言えることだ。そろそろ帰らねばと立ち去ろうとするが、猫は八の字に擦り寄ってきて離れようとしない。
「困ったな……迷子とかなのかな……」
 もしそうであれば放っておくことはできない。一向に離れようとする様子がないので、仕方なしに猫を抱き上げて帰ることにした。

 ミミが亡くなって久しいため、家にペットフードの類はない。なんとか余り物から猫が口にしても差し支えない食事を作り、ミミが使っていた餌皿に盛り付けて床に置いた。空腹だったのか、猫は皿に顔を突っ込まんばかりにして食らいつく。
 それにしても見れば見るほどミミにそっくりだ。
 餌を食べながらむにゃむにゃと鳴く様子、名前の由来となった、嬉しくなると両耳を小刻みに何度も動かすその仕草などまさしく生き写しで、まるでミミと暮らしていた頃に時間が戻ったかのような錯覚に陥る。
 怪我などしていないかと体を調べる。右前脚を見ようと首を傾けた瞬間、危うくまやは大声で叫びそうになった。
 右前脚には、綺麗にハート型になった茶色の模様があった。ミミと全く同じ特徴だ。多少模様が似ることはあっても、流石にここまで同じ特徴を持つとは考えにくい。しかも錆猫だ。アメリカンショートヘアなどのように、ある程度模様のパターンが決まっている種では無い。それこそ、百匹いれば百通りの模様になる。
 まさか、生き返った……?
 そう考えかけた時、首輪に掛かっている丸いチャームが目に止まった。
 霊園では暗くてよく見えなかったが、ただのチャームではない。よく見ると開閉できるようにロケットになっている。
 もしかしたら迷子札かもしれない。そう思ってロケットを外そうとしても、猫は少しも嫌がる様子を見せなかった。
 ロケットを開けると、そこには名前や住所の代わりに、USBメモリが入っていた。
 個人情報に配慮してワンクッション置いているのだろうか。不思議に思いながら、パソコンでデータを開いてみることにした。
 しかし、随分と古びている。本体は煤けて色が褪せているし、端子の部分は少々錆び付いていた。軽く拭き取って錆を落とし、パソコンに接続する。読み込まれたデータはテキストと、数枚の画像だった。
『日月まや様へ。平行世界の海底よりお伝えします。現在こちらの世界では、次元を侵犯し、そちらの世界を侵略しようという動きがあります。こちらの世界において、人類は邪神達に因子を埋め込まれ、彼等の奉仕種族として生活しています。この侵略を許せば、貴方達も邪神達の奴隷とされることでしょう。この危機を知らせるため、私は女神バステトの力を借り、貴方と繋がりのある存在であるこの猫をそちらに送り込みました。もはや一刻の猶予はありません。そちらの世界に平行世界を研究している者達がいるはずです。彼等にこの事実を伝えてください』
 簡素なテキストデータと共に記録された画像を見て、まやは息を呑む。
 その画像の背景は確かにまやの知っている街並みである。だが、ランドマークとして親しまれているはずの電波塔は、その画像では名状し難い、禍々しい曲線で構成された鉄塔に変わっていた。物理法則すら無視した無茶苦茶な形状であるにも関わらず、まるで空を鷲掴みにしようとするかのように天高く聳え立っている。
 次の画像は、人工島の上に作られたテーマパークがあるはずの場所に、藻が絡みつきカビたような不気味な城が鎮座していた。テーマパークへ続く海の上を通る鉄道は、枯れてしまった老木の枝と見間違えるほどに痛み、弱々しく打ち捨てられている。
「なにこれ……合成……?」
 そう信じようとしても、もうそれはあり得ないことをまや自身がよくわかっていた。
 手紙の主に心当たりはない。だが、その主はまやが猫を飼っていたことを知っている。そして、現に目の前にいる猫はミミと同じハート柄の模様を持っている。悪戯にしては手がかかりすぎるし、そもそも全く同じ模様の猫を用意することなどできるわけがない。
 残る可能性としては、この平行世界という言葉。
 以前ニュースで聞いたことがある。この宇宙とは別の、もう一つの宇宙の存在が観測されたと。
 平行世界なんて自分には関係ないと思って聞き流していたことを今になって後悔する。一体何処へこの事態を伝えればいいのか──。
 とにかく混乱したままでは何もできない。一度冷静になろうとソファに腰掛けた時、玄関から物音がした。
 こんな時に来客だろうか。一体誰だろう、とまやが立ち上がる前に、ドアが開いた音がした。続いて、複数の足音。
 状況を飲み込むより先に、リビングに何人かの人間が雪崩れ込んできた。
「誰·····?」
 全く予想すらしなかった状況に頭がついていかず、気の抜けた声で間抜けな質問をしてしまった。
「大丈夫、落ち着いて。貴方を傷付けようってわけじゃないの」
 リビングに雪崩れ込んできた数人の男の後ろから女性が現れた。この集団には似つかわしくない、細身の女性だ。長い黒髪は艶やかで、触れればきっとさらさらとしているのだろう。年齢は、どう見積もってもまやよりニ、三歳年上と言ったところだ。黒いスーツを纏った姿は、新卒のエリート会社員と言った趣があるし、スーツ姿でなければ大学生くらいに見えると思われた。
「因子反応は……この猫か。こっちへの敵愾心はなさそうだけど、ただの迷子、なんてことはないわよね」
「わ、わたしの猫が、何か······?」
 彼女らの目的がこのミミとしか思えない猫であることを察し、まやは咄嗟に嘘を吐く。
「悪いけど、下手な嘘をつかないで。貴方まで疑わなきゃいけなくなる。この猫は貴方のペットではないでしょ? 貴方のペットに瓜二つなだけで」
 どうしてそれを、と言いかけたが、それより先に女性が笑った。
「図星ね。なら、向こうから繋がりを辿ってきたと考えるのが妥当、か」
「繋がりって、まさか、平行世界のこと……?」
 繋がり。手紙の主も、まやとの繋がりを利用して猫を送り込んだと言っていた。彼女らは、平行世界の研究者達なのだろうか。
「そう、平行世界のことも知ってるのね……。お願い、猫と一緒に、私達についてきて。もしかしたら、このままじゃ貴方の身も危ないかもしれない」

 どのくらい車に揺られていただろうか。ようやく目隠しが取れると、病院のロビーのような、無機質な場所にいた。一面白い壁で構成されており、床を歩くと硬質な音がする。心なしか、気温も低く感じた。
「拉致するみたいな扱いをしてごめんなさいね。一応、民間人に場所をバラすわけにはいかないから」
 車の中でリカと名乗った女性に連れられ、歩き出す。こんな状況でもミミに瓜二つの猫は、まやの腕の中で気持ちよさそうに眠っていた。
「先生、邪神因子の回収、完了したわ!」
 リカの声に答えるように、両開きの扉が開く。中では、白衣を羽織った男性が山積みの書類の中に埋もれるようにして椅子に座っていた。
「おいおい、今度は人間か?」
「違うわ。猫の方。でも、今回はいつもと違う。向こう側の誰かが、この子達を利用して接触を図ってきたのかもしれない」
「そうか·····確かに猫なら、他よりは簡単にこっちに来られるかもしれないな」
 白衣の男は大儀そうに書類の山から抜け出し、こちらに歩み寄ってきた。
「驚かせただろう、すまなかったね。俺は榊綾瀬。平行世界の研究をしている者だ。で、この怖いお姉さんがリカ。俺の娘みたいなもんだ」
 そう言う綾瀬は、それほど年配には見えない。精々四十代に手が届くかどうかというところだ。とてもリカと親子関係には見えないが、いろいろ事情があるのだろうと思い、それには触れず自己紹介をする。
「日月まやです……。ここが、平行世界の研究所?」
「正確にはその一支部だね。いつどこで、何が起こってもいいように、研究所は日本各地散らばっているんだ」
「そんなに危険な状態なんですか?」
「なかなか切羽詰まっていてね……しかし、なにから説明しようか」
「私達が説明するより、彼女が持っているものを見た方が早いと思うわ」
 リカに促され、まやは綾瀬に錆びたUSBを渡した。
「これ、この子の首輪の中に入ってたんです」
「エラい古ぼけてるな」
「状況を説明するわ。邪神因子を感知して、私達は彼女の家に急行し、猫を確保しようとした。丁度その時、彼女は首輪の中に仕込まれていたそれに気づいて、中のデータを見ようとしていたの」
「なるほど、こっちの文明レベルに合わせてくれたわけだ。向こうじゃもうこんなものはお役御免になってるだろうからな」
 綾瀬はパソコンでテキストと画像データを開く。
「間違いない、これは平行世界の写真だ。報告の中にあった写真と一部の景色が一致している。それで、この猫から観測できた因子の型はどうだった?」
「今まで観測されたクトゥルー、ハスター、シュブ=ニグラス、ヨグ=ソトース──いずれとも一致しなかった。もしかして……旧神の因子?」
「この手紙の内容を信じるなら、バステトの因子に間違いないだろう。手紙の主の頼みに答えて、次元を超えやすい猫をこっちに寄越してきたってところか?」
「でも、旧神が負けたからあの世界は邪神に乗っ取られたんでしょう?」
「確かにバステトは旧神だが、進んで世界を守ろうとする神じゃない。世界の混乱を尻目に優雅に昼寝をしていたっておかしくないし、逆に助けを求められて無碍にするほど残酷でもないってことさ」
「あの……つまり、どういうこと?」
 綾瀬とリカが話していることが全く理解できず、たまらずまやは割り込む。
「ああ、ごめん。研究者達の悪い癖だ、すぐ自分達で話を進めちまう。まず第一に、俺達が生きているこの宇宙の他に、もう一つの宇宙が存在しているってことは、ニュースで聞いたことはあるかな」
 まやは領く。
「でも、どんな世界かまでは……」
「鏡写しだよ。そっくりそのままさ」
「もう一人向こうに存在しているの。私も貴方も先生も、その猫もね」
「それじゃあ、やっぱりこの子は私が飼っていたミミなの?」
「正確には、向こうの世界おけるミミ、かな。流石に全く同じ人生を送ることは不可能だから、こっちの世界ではちょっと寿命が短かったみたいね。おかげで、この世界における貴方とミミとの繋がりがあったという痕跡を辿って、このミミはこっちへ移動してこれたってこと」
「なんだか頭がおかしくなりそう……。平行世界にはもう一人のわたしがいるけど、平行世界でのわたしはもう死んでることもあり得るっていうこと?」
「そうよ。勿論私も、先生も、向こうでは死んでいるかもしれない。仮に生きているとしても、もしかしたら、人の姿をしてないかも」
「おい、あんまり変な言い方をして怖がらせるんじゃない」
 リカを窘めるように割り込んで、綾瀬は続ける。
「平行世界を発見した俺達は、まず観測することにした。あけすけに言えば、利用価値があるのかを見定めようとしたんだ。平行世界にしか存在しない未知の資源がないか、この世界で絶滅したが、平行世界で生き続けている生物はいないか、とかね。だが、観測できたのはそんな打算が一瞬で吹っ飛ぶくらい恐ろしい事実だった。平行世界において人間は、奴隷種族でしかなかったんだ」
 奴隷。なんとも時代遅れな響きだ。それこそ歴史の授業で「黒人奴隷が売買されていた」というような文脈でしか聞いたことがない。
「この観測結果を受けて、俺達は平行世界から手を引くことを決めた。だが、遅かったんだ。奴らの領域に入った時点で、邪神達はこちらの世界を認識してしまった。そして奴らは欲深かった。まるで存在する宇宙は全部自分たちの物とでも思っているみたいにだ。こちらの世界を認識した邪神達は、平行世界と同じように世界を乗っ取ろうとしはじめた」
「既に連中の中でも比較的「次元を超えやすい者」達が侵略を始めている。最近話題のバラバラ殺人ってあるでしょ? あれは奴等の仕業なの。邪神の侵略に対抗するために平行世界の探索に向かった私達の仲間も、もう何人もやられてる。それだけじゃなく、偶然奴等に遭遇してしまった民間人も……」
 確かに好きに空間を飛び回ることができる存在が犯人なら、日本各地で殺人が起きていることと、手口が同じことについて説明がつく。
「これ以上民間人の被害を出さないために、奴等が纏っている邪神因子──残り香みたいなものね、それを感知して討伐や回収するのが私の役目ってわけ」
 リカの説明を受けて、ようやく色々なことがまやの頭の中で繋がり始めた。
 平行世界が発見されたというニュースが初めて流れた時、自分には、いや、大多数の人間には関係ないものだと思っていた。
 しかし、今まさに、これまで交わることのなかった世界から未知の存在が到来し、現実的な脅威を与えている。そして、その脅威を防ぐためにリカのような若い女性まで、未知の存在と戦っている。まるでアニメやゲームのシナリオのようだ。にわかには信じがたい。
「ミミにも……その……邪神、因子、が?」
「そうよ。私達はその子の因子反応を嗅ぎ付けて貴方の所まできた。向こうの世界では、あらゆる生物は皆邪神因子を埋め込まれてそれぞれの邪神に支配されているの。尤も、その子についてるのは邪神じゃなくて本物の神様みたいだけど」
「もしバステトが自分の意志でこっちに接触を図ってきたなら、まだ旧神達は完全に消え失せたわけじゃないってことだ。それに、この手紙の主の差し金なら……邪神達も一枚岩じゃない可能性がある。思ったより、孤独な戦いじゃないのかもしれないぞ」
 二人の言葉を聞きながら、改めてまやは腕の中のミミを見た。どうみてもただの猫なのに、神の使者と言われてもいまいちピンと来ない。もはやこの状況そのものに現実味を感じられないでいた。
 本当はとてもリアルな夢を見ているだけなのかもしれない──そう思い始めた時、今までぐっすりと眠っていたミミがはたと目を覚ました。
「あら、どうしたの?」
 まやの声にも反応せず、警戒するように耳をくるくると動かす。かと思うと、顔を歪めて威嚇を始めた。
 リカと綾瀬に対して警戒しているのかと思ったが、リビングであれだけの大人数に取り囲まれても全く動揺せずに皿を舐めていたような性格だ。それは考えにくい。
 よく観察すると、二人でも、まやの方でもない、明後日の方向を睨んでいる。もしかしたらこの場所そのものを警戒しているのかもしれない、と言おうとした時、硝子を踏んだような音が室内に響いた。
 聞き間違いかと思ったが、すぐにその可能性は否定された。丁度ミミが睨んでいる方向の虚空に、稲妻が静止しているかのような黄色い光が浮かび上がったのだ。
 二度目の甲高い音と共に、黄色い光は一層強く差し込んだ。光はそこに在るのではなかった。「割れた空間」から溢れ出ていたのだ。
「伏せろ!」
「メーデー! 総員応戦!」
 綾瀬とリカが叫んだのは同時だった。
 ぱりん、と空間が「砕ける」音が響き、虚空から何かが体を捻じ込ませるようにして入り込んでくる。それは、おおよそ地球上には存在しえない悍ましい姿をしていた。
 まず最初に目に入ったのは、爬虫類の顔面に鳥の嘴を後付けしたかのような醜悪な頭部。そして裂け目からは、羽毛と鱗が無秩序に混在している胴体が突き出していた。
 その奇怪な生物の頭部の横あたりから、五本の指が入り込み空間の断面を掴む。長い爪が虚空に食い込んだ。そして力ずく、と言った様子で裂け目を押し広げようとする。ゆっくりと引き裂かれる其処から毛羽だった翼が現れて、初めてそれが指ではなく翼に繋がった鉤爪だと言うことがわかった。鳥や爬虫類を思わせる体に比べて、やけに人間の指に似たそれが滑らかに動くのを見て、鳥肌が立つのを禁じ得ない。
 遂に空間の断面は砕かれ、侵入者の全容が明らかになる。胴体にはもう一対の翼があり、泳ぐ金魚のヒレのように揺らめいていた。尾翼からは体液なのか、黄金色の液体が染み出し、白い床の上にぽたぽたと雫を零した。
 リカの要請で駆けつけたのであろう黒服の一団が部屋に雪崩れ込み、一斉に銃を掃射する。弾に撃ち抜かれて羽毛が飛び散るが、巨体を落とすには至らない。醜悪な鳥と爬虫類の合成獣は羽ばたきながら大きく口を開け、高らかに鳴いた。

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