麗しき世界

 南極に未踏の地、通称「狂気山脈」と名付けられたそれが発見されてから十数年。幾人ものアルピニスト達の命を食らったその山脈を踏破したのが日本人だったということで、沈み切っていたこの国は歓喜に沸いていた。
 その日本人アルピニスト、中津川優良の「戦果」は名誉だけではなかった。山脈からこれまで地球上に確認されたことのない「未知の生物」の細胞を持ち帰ったのだ。
 日本中の叡智と資金を投入した結果復元された生物は、自由に形状を変え、規格外の膂力と体力を持ち、かつ人間に従順な性質を備えていた。「ショゴス」と名付けられたそれが、骨の髄までドス黒いこの国で労働力として使われたのは必定だった。
 無遠慮に明滅し、互いに存在を主張し合う下品なネオンの下で、私はショゴスが打ち捨てられているのを見つけた。大量のゴミと共にこの歓楽街に放置されていれば、酔っ払いの吐瀉物と見間違えてもおかしくはない。私がそれに気づいたのは、ただ単に俯いて歩いていたからにすぎない。
 テレビや写真で見たことはあったが、実物にお目にかかるのは初めてだ。ちょっとした好奇心で近づくと、それは特徴的な鳴き声を上げながらズルズルと私の足元に這い寄ってきた。ほんの気まぐれで、私はそれを家に連れて帰ることにした。
「あんたが悪趣味なのって、男だけじゃなかったんだ」
 酒を飲んで終電を逃した友人が、床を緩慢にのたうつショゴスを見て顔を顰めた。
 労働力として完璧なこの生物は、黒いタール状のどろどろした体をした上に、体表に無数の緑色の眼球を持つと言う、致命的な欠点があった。そのグロテスクな姿故に、この生物は宇宙から飛来した侵略者であり、再度封印すべきだと主張する層も一定数いる。
「意外に可愛いのよ。食べ物は好き嫌いしないし、のたのたしてるし、鳴き声もネズミみたいで」
 嘘ではない。常に緩慢で、時たまテケリ・リと特徴的な鳴き声を上げるぐらいで、いたって大人しい。それが私に恩義でも感じているのか、のたのたと後を追ってきたり、帰宅した所を出迎えてくる姿は案外可愛らしかった。
「何食べるの? 肉? まさか人間とか?」
「馬鹿。なんでも食べるよ。人工合成整形肉でも、超促成栽培野菜でも文句ないみたい。食べる量も、こうやって普通に暮らす分にはちょっとで足りてるしね」
「ふーん、上級国民様より経済的なんだね」
 かつては人の手で育てられた家畜や野菜が庶民の食卓にも並んでいたらしい。しかし疫病が蔓延したことをきっかけに経済が衰退した日本では、一体何を培養したのかわからない合成肉と、無茶苦茶な仕組みによってほんの数週間で収穫されるようになった怪しげな野菜が、私達一般大衆の主食だ。この友人がおそらくしこたま飲んできたであろうアルコールも、厳密に言えば純粋なアルコールではない。人間に高揚感と酩酊をもたらす化学物質で合成されたものだ。
 もはやこの国でナチュラルなものを食することは、高収入高身長高学歴と同じようなステータスになっていた。
 もしショゴスが万人受けする愛らしい姿であったなら、きっと生産数を絞られて、犬や猫や兎などと同じように高値をつけられ、上級国民の家庭で飼育される愛玩動物として売り物になっていたことだろう。言葉を喋ることなく、グロテスクな見た目だからこそ、人間は何も気にすることなくショゴスを大量生産し、労働力として使いたおし、そうして使い捨てていく。この国でルッキズムに晒されているのは、人間だけではないということだ。
 どこが口なの、と聞かれてたので、どこでも、と答えて私は友人にスモークされた合成肉を手渡した。友人の手によってショゴスの上に落とされた合成肉が音もなく黒い体に沈んで消えたのを見て、彼女はヤバい、と笑った。
 歓楽街でこき使われて捨てられたにも関わらず、ショゴスはネオンを見るのが好きだった。南極にいたくらいだから、オーロラを思い出させたのかもしれない。彼らが本来生きていた時代なら、もっと気軽にオーロラが発生していたことだろう。小さくなったショゴスを鞄に入れて、夜の歓楽街を意味もなく歩くのが私の習慣になっていった。声をかけてくるキャッチやスカウトは、鞄の中のショゴスを見ると決まって同じような反応をする。私の顔をまじまじと見つめて、すみません、だの大丈夫です、だのと言って後ずさる。その顔には一様に「正気か?」と書いてあった。彼らにとって奴隷に過ぎないものを後生大事に鞄に入れて連れ歩いていることが理解できないのだろう。
 私からすれば、この歓楽街にたむろして他人に大金を注ぎ込む人間の方が理解できない。ショゴスは私を騙さない。罵らないし、馬鹿にしない。ただ私の脈絡ない不平や不満や独り言に相槌を打つように、テケリ・リと鳴くだけだ。
 上級国民が犬や猫を愛でるように、私もショゴスにそうした。荒み切っていた私の精神は、この奇妙なセラピストによって少しずつ安定していった。
 そんな生活は突然終わりを告げた。ある日、東の空がなんとも名状し難い、ショッキングピンクとヴァイオレットを混ぜ合わせたかのような、悪趣味で、具合を悪くしそうな色に光った。ネットニュースでは、その光を伴った飛来物が落下してきたと書いてあった。誰もが隕石か、スペースデブリの成れの果てかと思っていた。
 だが、そんな楽観的な考えはすぐに打ち砕かれた。飛来物の墜落地を起点として、徐々に土地が侵食され始めたのだ。まずは周囲の木や花がみるみるうちに枯れていった。そして植物が死に絶えるとさらに範囲を広げ、コンクリートの建物すら崩壊させた。そして、慌てて調査しようと近づいてきた人間さえミイラにしてしまった。
 ああ、これで日本は終わりだなと煙草を蒸しながらテレビを見ていたら、今まで大人しく床に広がっていたショゴスが俄に大きくなり、活発に動き始めた。まるで立ち上がりでもするかのように。
 それから窓を開けて、少しだけ私を省みるかのように体を拗らせた。どうしたの、という間も無く、大きな体に似つかわしくない速度でにゅるりとうねって何処かへ去ってしまった。それは、不気味に光った東の方向だった。
 取るものも取らず外に出て、ショゴスの姿を探した。わずかに残っていた、何かが這いずったような痕跡を手掛かりに追っていくと、規制線が張られた道に行きあたった。立っている警官は、ここから先は汚染地帯です、と怒鳴るように言って私を追い払った。
 間違いない、ショゴスは飛来物の元に行ったのだ。
 確信した私はそのままなんのアポイントメントも無く、中津川優良の元に押しかけた。ショゴスを見つけた彼なら何か知っているかもしれないという、藁をも掴む思いで。
 夜中に突然押しかけて状況を捲し立てる私に怒るでも困惑するでも無く、彼は空を見上げて言った。
「侵略者を殺しに行ったんだ」
「どういうこと?」
 唐突に放たれた殺す、という物騒な言葉に、私は耳を疑って聞き返す。
「あの光は、人間がまだ理解していない領域の宇宙に由来する生命体だ。奴等は無差別に他の惑星に着地し、そこから生命を吸い上げて成長する。そして十分なエネルギーを蓄えると、成体へと変化して元いた領域に還る。このままだと、恐らく日本全土が吸い上げられて死に絶えるだろう。だからそれを殺しに行ったのさ」
「あなたはそれを知ったから干されたの?」
 そんな突拍子もない話を、何故か私は全く疑うことなく受け入れた。それは、彼が狂気山脈から帰還した後に忽然と表舞台から姿を消したという経緯を知っていたからかもしれないし、それだけではなかったのかもしれない。
「そうだ。俺は人間にとって不都合なことを知り過ぎた。だから持ち帰ってきたものの中で、使えそうな細胞だけ取られてお払い箱になったのさ」
「あれはショゴスの敵なの?」
「違う。ただ単に、あんたを守りたいだけだろう」
 その時、夜の闇に包まれていた世界が、突然真昼のように明るくなった。
 中津川優良は語り続ける。
「ショゴスの細胞には刻まれていることが二つある。一つは奉仕するということ。もう一つは、滅ぼされるということがどういうことか。だから、滅ぼされないためにあの地に行ったんだ。それがあんたに対する奉仕になると」
 東の空は、まるで御伽噺の龍が昇るように揺らめく、長い長いオーロラに彩られていた。
 その光があんまりにも美しかったから、声を上げて私は泣いた。

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