小説:囚人番号02番は愛した(後編)

 翌日──つまり、犯行当日、自分はバイクに乗って事務所に向かいました。自分が丸一日講義に姿を見せなかったと皆が証言しているのはこのためです。バイクに乗ったのは、最悪連れ去られる藤咲さんを追跡することになるかもしれないなどと考えたからでした。この判断は間違っていなかったと信じています。そうでなければ彼女は今頃どうなっていたか、想像しただけで吐き気がこみあげてくるほどです。
 情報開示請求を行いナンバーを調べた結果、全く知らない男の名前が出てきました。それが自分が間違いなく直接手にかけた、あの被害者です。彼女とは姓も違うし、住所も以前会話の中で彼女の口から聞いた最寄駅とは遠く離れている。親戚か何かならいいけれど。いや、親族まるごとに悪に飲み込まれている可能性も──などと色々と考えていました。数時間後に、自分がその男を殺すことになるとは夢にも思わずに。
 考えた末に、とにかく今の自分にはこの住所くらいしか手掛かりはないのだから、向かってみるしかないだろうと結論づけました。そこに彼女がいなかったとしても、車の持ち主がいればなんとしてでも問い詰めてやろうと決心し、そうしてまたバイクを走らせたのです。
 一睡もしていない状態でバイクに乗ったのかと批難されそうですが、自分の意識はあの一日が終わるまでずっと明瞭でした。寧ろいつもよりはるかに冴えわたって、大胆になっていたようにも思えます。窮鼠猫を噛むというのか、あるいは色惚けした男の一念が岩をも砕くと言うのか、とにかく、そんな感じだったのです。
 一時間ほどバイクを走らせて辿り着いたのは、なんの変哲もない住宅地の中に佇むアパートでした。駐車場にあのナンバーが見えたので、男が家にいることがわかりました。藤咲さんもそこにいるのか確かめるために、まずは忍び足で部屋の前まで行き、何か声でも聞こえないかとドアに耳をつけてみましたが、そんな古びたアパートでもなかったのでこれは空振りでした。
 窓から中の様子を伺うことはできないかと思い、今度は道に面しているブロック塀に飛び乗り、そこからアパートの隣の敷地から枝と葉を広げている木に登りました。幸い自分は身が軽い方なので、これくらいのことはできたのです。
 部屋の真ん前まで枝を伝っていくと、カーテンの間に少しだけ時間があるのが見えたので、葉の中に身を隠しながらに近づきました。
 カーテンの奥から藤咲さんの姿が見え、一度は衝動的に窓から飛び込もうかとしましたが、それを必死で押さえつけ、元来た道を戻り、また駐車場に戻りました。部屋の中に飛び込むにしても、男がいないときでなければいけない、それに、男が彼女を連れ出すかもしれないし、そもそもまだ男が悪漢と決まったわけではないのだからと、必死に自分に言い聞かせて。
 朝が昼になり、昼が夕方になり、遂には夕日が沈み、空にうっすらとした月が浮かび上がるまで、自分は身を潜ませ、誰か出てきやしないかと気を張り詰めていました。流石に疲れを感じ始めた頃、あの部屋のドアがついに開いたのです。
 疲れは一瞬で吹き飛び、自分は森林に潜む肉食獣のような心境で息を殺してそれを見ていました。男が藤咲さんと、もう一人中年の女性を連れて車に歩いていきます。やつれたように細って、いやに老け込んで見えるその女性が藤咲さんのお母さんであることはなんとなくわかりました。そして、藤咲さんの泣きそうな顔からして、これから行く場所が決して愉快な場所ではないことも。
 車がある程度走ったのを見計らい、自分もバイクのエンジンをかけました。この前の件で顔が割れている可能性も考えていたので、フルフェイスメットのカバーを下ろして。
 尾行が気づかれないよう、適度に距離を取りつつ車を追ってバイクを走らせていくと、どんどん街の中心から離れていくように感じられました。繁華街を離れ、店がぽつぽつと点在するようになり、遂に見かけるのはぽつんと互いに離れて存在するコンビニだけ。そんな道を通っていくと、間もなく峠に差し掛かりました。
 峠とは言えそれなりに見通しはよかったので、尾けているとバレないようにかなり距離を離して走行しました。恐らく峠のツーリングを楽しみに来たバイク乗りに見えていたのか、警戒されている様子もなく追跡は順調に続きました。
 出発した時にはうっすらと弱々しかった月が、黒い空の中で光を放つようになった頃、車が減速を始めました。恐らく道の先に見える一時停止区域に止まろうとしているのだと予想して、自分はバイクを茂みに隠して、先回りをしようと獣道の中を駆け抜けました。
 すると、唐突に拓けた場所が現れました。そこの草は薙ぎ倒され、小枝は粉々になっていたので、大勢の人間の足に踏み荒らされてきたことが窺い知れました。山の上の方に向けて目をやると、その拓けた筋はまだ続いています。これは何かへの道だ、それも大勢の人間が、定期的にここにきているんだ、それぐらいのことは自分にも推理できました。
 予想通りに停まった車の中から、三人が連れ立ってこちらに来るのが見えたので、自分は茂みの中に伏せて身を隠しました。無事にやり過ごし、足音を立てないようにしながら、人為的に作られた道を辿って後を追いました。
 道の行き当たりには、ぽつんと洋風の小屋が建っていました。将棋の駒のように角ばった屋根を持つ、木製の小屋。これを駒形切妻屋根ということは、怪奇小説から得た知識で知っていました。しかし、実物を見るのは当然初めてです。そもそもこんな古めかしい様式の小屋が、何故峠道の途中から分け入らねば辿り着けないような場所にあるのだろうと、不思議に思ったものです。
 三人がそこへ入っていくのが見えたので、まずは外から様子を探ろうとして窓を探しました。見上げるとやたら高い位置に窓があったので、自分は此処でも木に登る羽目になりました。
 太い幹の陰から窓を覗くと、床に仄暗く光る線が幾重にも引かれていました。よく見るとそれがなにかの図形を描いているようにも思えましたが、自分にその意味はわかりませんし、酷く複雑なものだったのでもう覚えてすらいません。線が光っていたのは、恐らくリンでも塗ってあったのだと思います。
 じっと窓を見張っていると、引っ立てられるように──というより、実際無理矢理だったのでしょう──藤咲さんが線の上に連れてこられるのが見えました。そして、彼女を連れてきた男が図形の少し外側に立つと、複数の人間が彼女に掴みかかり、無理矢理衣服を剥ぎ取ったのです。
 これは警察を呼んでいる時間はない、彼女を助けなければ、けれど丸腰では──そう思ってあたりを見回すと、月明かりに照らされて鈍く光る何かが見えたので、急いで木から飛び降り、震える手でそれを持ち上げました。月の光に照らされて正体を現したそれは、打ち捨てられ、大部分が錆びているシャベルでした。それでも手にずっしりとかかる重みから、それが十分な武器になるだろうと確信しました。

 こんな所を全くの部外者が見つけるとは思わなかったのでしょう。ドアには鍵が掛かっていなかったので、開くと同時に勢いに任せて中に駆け込みました。
 そして、彼女の衣服を剥ぎ取って押さえつけている連中目掛けて無我夢中でシャベルを振り回しました。それがその内一人の顔に思い切り当たって、何かが潰れる生々しい感覚が掌に感じられました。目玉が破裂した男の死体が、ごろりと床に転がりましたが、自分は藤咲さんが乱暴されそうだという怒りで頭が一杯で、殺人を犯したという実感さえありませんでした。
 不意を突かれた上に仲間の一人が殺されて怯えたのでしょう。他の連中は彼女から手を放して後退さったので、自分は彼女の手を握って叫びました。
「逃げよう!」
「待って、足が......!」
 彼女がそういうので、足を怪我したのかと思って視線を遣った瞬間、自分は声を失いました。心臓を鷲掴みにされたような衝撃に襲われて、今思えばよく失神しなかったものだと思います。なにせ、薄く光を放つ図形から、油が混じった水がそのまま固体になったような色をした触手が生えていたのです。それが彼女の足首に、ねっとりと絡み付いていました。
 図形の薄ぼんやりとした光はいつのまにか強い虹色の光になっていて、その向こうに立つ男が慌てた様子で両手を振り回しながら、何かを叫んでいるのが見えました。
 男の腕の動きに応じて光が強まっているように見えたので、自分は我に返って図形を一足飛びに越え、男の頭目掛けてシャベルを振り下ろしました。まさかこんなー気に飛びかかられると思っていなかったのか、男はまともに一撃を食らって、頭から血と乳白色の塊を飛び散らせて倒れこみました。すると藤咲さんの足から気味の悪い触手が離れたので、今度こそ自分は彼女の手を引いて逃げ出そうとしました。
「なにするの! その子はよぐそとほおす様の花嫁になるのよ!」
 そう叫びながら中年の女性が掴みかかってきました。ひどくやつれて老け込んだその顔──藤咲さんのお母さん、その人でした。
「あんた、母親だろ! 自分の娘がこんな目に遭わされてるんだぞ!」
 怒りのあまり、自分も乱暴な言葉で怒鳴り返しました。しかし、お母さんは怯みもせずに物すごい力で自分たちを押しとどめようとします。
「その子はよぐそとほおす様の子を産んで、全ての世界の空間を開くのよ! そうしてあの人をこちらに呼び戻すの!」
「お母さん! そんなことしたってお父さんは戻ってこないの!」
 藤咲さんが半ば涙声でそう言ったので、それでようやく自分はお母さんの目的を知りました。けれどもお母さんは彼女の叫びにも耳を貸さず、いよいよ目を吊り上げて鬼のような形相になったので、これは話が通じないと思い、自分の足でお母さんの足を払い、蹴倒しました。そして彼女の手を引いて小屋を飛び出すと、後ろで血が凍りつくような悍ましい声が響いたのです。
「逃すものか! 私がよぐそとほおす様をお呼びして、銀の鍵を手にしなければ! いあ、いあ......!」
 咄嗟に、このままこの場を離れるのはなにかとても危険なような気がしました。なので、自分はシャベルを捨ててコートを脱ぎ、藤咲さんに羽織らせて言いました。
「来た道を走って逃げるんだ! 後から行く!」
 きっと色々な気持ちでいっぱいになっていたのであろう藤咲さんは何も言わずに頷いて、あの踏み荒らされた道を駆けて行きました。それでも、直後の自分の悲鳴を聞いて、心配してくれたのでしょう。
「一ノ瀬君!?」
「大丈夫だ! 振り向くな! 逃げろ!」
 目の前に広がる光景に気を失いそうになるのをなんとか留めて、それだけ叫び返しました。
 事実、藤咲さんがあれを直視しなくて良かったと、今でも思っています。自分が見たものは、駒形切妻屋根の小屋からぶくぶくと、窓といわず壁のわずかな隙間からさえも膨れ上がるようにはみ出してくる、恐ろしい泡のような存在だったのです。それは先ほどの触手と同じ、油が混じった水のような、虹色のような、形容できない色でした。さっき彼女の足首を掴んでいた触手など、きっとあれの指先に過ぎず、本体は今醜くこの世に溢れ出そうとしているこの吐き気がするような塊であることは明白でした。
 この塊が溢れ出すのを止めなければ──反射的に辺りを見回すと、自分のすぐ横にドラム缶と、ガソリンに満たされた缶が揃えて置かれていることに気づきました。今となってはそれらがどんな使われ方をしていたのか考えると別の恐ろしさが込み上げてきますが、それもあの圧倒的に気持ちが悪い、本能的に邪悪さと吐き気を感じさせる存在に比べれば矮小なものです。
 自分はガソリンの缶を蹴倒し、喫煙者であるため常にポケットに忍ばせていたライターを点火し、そのまま小屋の方向に投げ込みました。あっという間に火が燃え広がり、駒形切妻屋根さえも覆いつくしました。小屋からはみ出さんとしていた塊は急速に勢いを失い、弾け、しぼんでいきました。それを見て、ようやく自分の役目を果たしたことを確信したのです。
 後のことはきっとご存じの通りかと思います。自分も山を下り、公道の近くで身を隠して待っていた藤咲さんをバイクに乗せ、峠を下って最初に見えた交番に駆け込み、自分が殺人を犯したことを報告しました。
 ここから先は、自分から片桐様へのお願いになります。死にゆく者の願いですから、どうか聞いてやってください。
 この件について、藤咲さんが自分に執行猶予を与えるように訴えていると刑事さんから聞きました。ですがそれは不要であると彼女にお伝えください。自分はもう、あの悍ましい塊を見てしまったからには、このまま生きていくことなど到底できません。
 自分達が立っている地面の下には、人間の理解の及ばないなにかが轟いていて、あんな風に地上から溢れ出す機会を今か今かと伺っている。それに加えてこの世には、自分の願望のために自分の子供すら差し出してしまうような人間がいる。そんな恐怖を抱きながら、自分の足元に、隣人に怯えながら暮らすなんて、考えるだけで気が狂いそうになります。ですから、彼女に自分が見たものについては一切知らせないでください。
 それに次いで心配なのは、藤咲さんの名誉が不当に傷つけられていやしないかと言うことです。男女のことですから、世間の無用の、下衆の勘繰りが数え切れないほどにされていることでしょう。彼女の尊厳を汚されるのは我慢できません。どうか彼女の名誉が損なわれることのないよう、取り計らってください。
 最後に、この先説明のつかない奇妙な事件が起こったら、その影には自分が見たようなものが関わっているかもしれないということを、頭の隅に留めておいてください。常に意識していたら、自分のようになってしまうでしょうから。何か変だ、おかしい、と思った時に、獄中からこんな手紙が届いたということを思い出してください。
 以上について、きっと貴方なら誠実に対応してくださるだろうと信じて、この手紙をお書きしました。どうか、どうか、よろしくお願いいたします。

令和二年六月十九日
一ノ瀬 零次

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?