黒山羊の食卓(前編)

 本当に嬉しいわ。女神様にこの身を捧げて生涯を終えることができるなんて。きっとなにかの病気で死んでしまうんだってずっと思っていたし。でも、これで貴方に地位も名誉も残すことができる。
 ねえ、どうしてそんな顔をしているの? いけないわ、そんな浮かない顔をしていては。寂しいと思ってくれるのは嬉しいけど、女神様への不敬と思われてしまうでしょう。貴方はこれから立派な身分になるのだから、こんなことで傷がついたら困るわ。それに、私は本当に幸せなの。結婚式の時と同じくらい。
 ああ、もう行かなくちゃ。
 さようなら、子供も産めない体の私を愛してくれて、本当にありがとう。
 
 神薙悟はびっしょりと寝汗に濡れて目を覚ました。身体が重い。室温が低いわけでもないのに、気化熱で寒気がする。
 嗚呼、まただ。黒いウエディングドレスに身を包み、微笑んで去っていく妻の背を、もう何度見送ったことだろう。
 ベッドサイドに置いた瓶を掴んで煽る。素面では耐えられない──耐えられない? 何に? 黒き女神の糧として選ばられ、その身を捧げることはこの上ない光栄であるというのに。現に自分は女神に捧げられた者の家族として名誉と地位を与えられ、何不自由ない生活をしているというのに。この瓶がその証拠だ。類似した化学物質を合成した物ではない、本物の酒は、この世界に住む大多数の人間がおいそれと手に入れるものができない貴重品だ。それをこんなにも雑に煽っている。
 轟音が響いて、カーテンの隙間が一瞬光った。この世界は、定期的に嵐に見舞われる。こんな嵐の日は、一層気分が悪くなるのが常であった。
 名状し難い内的な衝動に耐えられなくなり、神薙は床に落ちていた剃刀を手に取った。硬化した手首の皮膚に押し当て、ゆっくりと、平行に引く。鋭い痛みとぼたぼたと流れ出す血液が、少しだけ精神を沈めた。
 一体いつまでこんなことを繰り返すのだろう。妻が女神に捧げられてから既に十三月の刻が過ぎた。新たな妻を娶ることもせず、子を成すこともせずに、夜毎嗜好品を煽って自らの手首を傷つける日々。女神の民として、あるまじき非生産的な生き方だ。
 寝付くことができず、結局朝までに更に三つの傷を創ってしまった。仕方なく包帯を巻き、長袖を羽織って隠す。
 外に出ると、真っ青な空が広がっていた。太陽は燦々と輝いている。急激に気圧が上がっていくせいか、酷い頭痛がした。
 一中流市民であった神薙は、妻が女神の晩餐に選ばれたことにより、最上級の市民である管理階級に格上げされた。
 管理階級が暮らすこの区画の中心には、「黄の尖塔」と呼ばれる建築物が聳え立っている。名の通り、黄色に彩られた煉瓦を組み上げて建てられたものだ。尖塔は、太陽を串刺しにしようとするかのように今日もその存在を主張している。その尖塔を超えて北に進むと、管理階級の職場となる「中枢」がある。
 中枢に出勤し、自分のデスクに座る。鎮痛薬を水で流し込み一息ついてから、コンピューターを起動させた。
 今日もデータベースを更新しなければならない。市民健康管理システムにアクセスし、「候補者」のタブをクリックする。今日は二十三名が追加されていた。男性、昨晩零時を以って満七十歳。女性、同上。男性、二十七歳、脊椎損傷による下肢及び上肢機能障害、座位の保持不能と診断──。二十三名全員が条件を満たしていることを目視確認し、「女神の座」に同期させる。
 健康管理システムとの接続を解除し、今度は「女神の座」の順位更新に取り掛かる。四十五歳、男性、意識不明から回復の見込みなしと断定。優先度AからSに更新。五十七歳、女性、病状の進行により認識能力低下を確認。優先度BからAに更新。三十八歳、女性、子宮頸がんの進行により余命二年と宣告──手が止まった。マウスを握る手が、固まったかのように動かない。
 妻と同じ歳の女性。理由は違えど、もはや子供を残すことを望めなくなった存在。
 今度は手が勝手に動き出した。今は不要なはずの、「世帯情報」欄をクリックする。彼女には同じく三十八歳の夫がいた。
 座っているのに目眩がする。画面が霞む。いけない、仕事中なのに。彼女を優先度Sに更新しなければいけないのに。次の女神の晩餐の刻はいつやってくるかわからない。情報の更新遅滞は許されない。
「……君、神薙君?」
 肩を揺さぶられて我に返った。見上げると、市民情報管理部門統括である結城沙希が立っていた。
「顔色が悪いわね、大丈夫?」
「大変失礼致しました、問題ありません」
「話があるの。今時間を貰っても良いかしら」
 彼女に連れられ、別室に移動する。何の話かは大凡予想はできている。それを思うとうんざりした。
 うんざりした? 神薙は自分の思考に驚愕する。統括の「指導」は当然のことだ。それを不快に思うなど、管理階級、いや、市民としてあるまじきことだ。自分はいつからそんなに堕落してしまったのだろう。
「神薙君? 本当に大丈夫?」
 彼女の声で、なんとかふらつきそうになる足を留める。
「申し訳ございません、ただいま参ります」
 倉庫代わりに使われている別室に入り、扉を閉める。
「貴方、ここ最近目に見えて様子がおかしいわよ」
「申し訳ございません」
「やっぱり次の伴侶を早く決めるべきよ。いつまでも一人でいるから、生活のバランスを欠くんだわ」
 押し付けるように、彼女は封筒を渡してきた。ずっしりと重い。見なくともわかる。自分の「次の伴侶」の候補者だ。
「今度は学力テストで高得点を出した子女だけを選んだわ。じきに学府を卒業する」
「学生、ですか」
「そうよ、若くて教養もある。有望株を揃えるのは大変だったんだから。貴方が優秀な人間なのは認めるわ。並みの女では相性が合わないのも理解はできる。でも、選り好みが過ぎるわよ。貴方はまだ独り身でいるのが許される年齢じゃないし、貴方ほどの優秀な人間なら尚更子供を拵えないと。これは管理階級、いいえ、市民としての、女神に対する義務よ」
 子供を拵える──その言葉を聞いた途端、一気に吐き気が込み上げてきた。なんとか抑えていた目眩が噴出する。世界が回転した。

 目を覚ますと、白い世界が広がっていた。脳の動きが鈍い。状況が理解できない。右腕に点滴が刺さっているのを見て、ここが病室だということはかろうじて理解できた。
「神薙様、お目覚めになりましたか。ご気分はいかがですか」
 傍に待機していたらしい看護師に声をかけられる。
「私は、何故ここに……」
「倒れて運ばれていらっしゃったんですよ。今主治医の先生をお呼びいたしますね」
 言いながら、看護師はコールをかけて誰かを呼び出しているようだった。
 数分して、看護師と入れ替わる形で主治医とおぼしき女医が入ってくる。
「初めまして、神薙さん。貴方の治療を担当する、橘由香里です。意識ははっきりされているようですね」
「はい、ですが、あまり記憶が」
「管理局で倒れて搬送されてきたんです。その右腕の様子から、メンタル面に問題が生じていると判断されて精神科病棟に収容されました」
 言われて右腕を見ると、自分で処置した時よりも丁寧に包帯が巻かれていた。
「随分酷く切りましたね、点滴の針も通りませんでしたよ」
「私はこれからどうなるのですか。女神の晩餐に供されるのでしょうか」
 妻と同じようになるならそれでも構わないと思った。しかし目の前のは女医は微笑してそれを制する。
「まあ、そう焦らずに。結城統括は貴方が心身の健康を取り戻すことを切に望んでいらっしゃいます。ですから、私が指名されたのですよ。私はいやしくも、この世界では名医と呼ばれております。貴方には明日から、私が開発した最先端治療を受けていただきます。今日もうお疲れでしょうから、お話もこの辺りにしておきましょう。もうじき夕食の時間ですから、ちゃんと召し上がっておやすみになってくださいね」
 それでは、と女医は踵を返して退室した。いかにも、な医者だなとぼんやりした意識の中でそう思った。
 夕食は培養肉とパン、それにサラダとスープの付け合わせだった。個室を与えられた特別待遇とはいえ、このパサついた、焼いた培養肉からは縁が切れないようだ。管理階級から下層市民にまで、遍く供給される主食である。
 食欲がない上にベッドの上で食事をするという行為がどうにも落ち着かず、正直気が進まなかったが、摂食障害の傾向有りと判断されるのも厄介なので、仕方なくその完璧な夕食を胃に詰め込んだ。
 翌朝も極めて完璧な朝食を摂ると、ほどなくして看護師に案内され、女医の診察室に通された。
「おはようございます、神薙さん。体調はいかがですか?」
「昨日よりは悪くない、という程度です」
 それはなにより、と返しながら女医は電子カルテを開いていた。
「検査の結果、体に異常は見られませんでした。やはり貴方の不調の原因がメンタルにあることは間違いありません」
「そうですか」
 特段動揺することもなかった。寧ろ原因が判明したことによって納得すらしている。メンタルの不調とはつまるところ脳の異常である。科学的なアプローチから対処可能だ。自分は直に治療され、また管理階級の一市民に戻るだろう。
「貴方の経歴を調べさせていただきました。奥様が、前回の「女神の晩餐」に供されたのですね」
「ええ。生来病弱でしたが、結婚してから不妊であることが判明したもので、優先度が高かったのです」
「貴方の不調は、奥様を失ってすぐに現れたのですか?」
「そうだと思います。夢に見るのです。妻が女神の祭壇に降りていく後ろ姿を」
「それは、何度も?」
「数え切れません」
 治療を受ければ、もう夢を見ることは無くなるのだろうか。あの声も、顔も、永遠に失われるのだろうか。左腕が鈍く痛む。
「いけません、傷に障ります」
 女医に制されて、ようやく自分が包帯の上から爪を立てていることに気が付いた。
「……動揺したときに、自傷行為を?」
「動揺とは違うように思えます。どうにも説明のつかない居心地の悪さに、堪らなくなるのです。妻にはこの上ない名誉が与えられ、私は管理階級に迎えられた。嗜好品のアルコールだって、簡単に手に入る。なのにとても居心地が悪いのです。体と意識がバラバラになるような、不安定な状態になるのです」
「……よくわかりました」
 不意に女医が立ち上がる。そして神薙の背後の扉の鍵を閉めた。精神科医が患者と密室に入るなどありえない。何が起こるかわからないからだ。彼女の意図がわからず、神薙は困惑した。
「確信しました。貴方なら、視ることができる」
「視る、とは……?」
「貴方のその形容し難い感覚の名を、貴方の心身を追い詰めた敵の名を」
 彼女はキャスターが取り付けられた機械を引き寄せた。シンプルな正方形の本体から、複数のコードが伸びている。コードの先には電極が取り付けられていた。
「電気ショック療法でも行うつもりですか。最先端どころか随分と古典的な手法ですが」
「ご安心を。それほど強力な電流ではありません。脳の一部に、効率的に働きかけるようにできていますから」
 額やこめかみに電極が取り付けられる。そして彼女は、レバーを倒した。
 瞬間、視界が変わった。
 痛みも衝撃もなく、神薙が視認していた診察室の風景は、見覚えのない景色に塗り替えられてしまったのだ。視界はぼんやりと霞がかかっているが、弱々しく朧げな幻覚とは違っていた。夢を見ている時のような感覚だ。
 そこは青々とした木々と花壇に彩られ、中央には噴水が鎮座している空間だった。公園だろうか。だが、この世界でこんな場所は見たことがない。
 一組の男女が寄り添いあって、仲睦まじい様子で歩いている。二人の顔を見て、神進は驚愕した。
 それは間違いなく自分と妻であった。互いに一つずつ手から袋を下げている。袋からは詰められている野菜が覗いている。買い物帰りなのだろうか。けれど、この世界ではこんな風に食料を買うことはない。食料は全て管理され、配給されるものだ。
 二人は穏やかに談笑しながら、周囲の目を気にすることなく堂々と歩いている。行きかう人々も、誰も妻が子を為せない体であることをなじったり、こそこそと陰口を叩く様子もない。
 鳴呼、これは私が真に望んでいた光景だ! 気が付けば神薙は床に崩れ落ち、嗚咽を上げていた。もう何年もすることがなかったその行為が上手くできないせいで、呼吸ができない。
「何が視えましたか」
 橘に背中を擦られて、少しだけ呼吸ができるようになった。数度咳き込んでから答える。
「妻と、穏やかに暮らせる世界……あれは、私の、願望?」
「いいえ、それは貴方に本来与えられるはずだった世界」
「世界、とは」
「過去に、世界中にある感染症が蔓延しました。それは多数の死者を出す危険なものであり、人類は未曾有の危機に立たされた。そこに宇宙から飛来した悍ましき者たちが目を付け、世界に介入したのです。しかし、理を曲げた強引な干渉のせいで致命的な歪みが生じ、世界は二つの可能性に引き裂かれてしまった。即ち、人間が侵略者に屈した世界と、人間自身の知恵によって感染症の克服に成功した世界です」
「侵略された世界、それが、此処だと?」
「そう。黒き女神は神聖な存在などではありません。宇宙から飛来し、繁栄と引き換えに人類を自らの奴隷となる様に価値観を歪めた、人智を超えた悍ましい侵略者なのです」
 話だけを聞けば到底信じがたいと思っただろう。しかし、この状況下では信じたいと思った。
「その話が本当であれば、私は間違っていなかったのですね。妻を失ったことを名誉だと思えない──いや、「悲しい」と思うこと。それこそが、人間として自然な有り様だったのですね」
 ずっと胸につかえていた異物が、取り出されたような気がした。
「本来の世界——便宜的に「平行世界」と呼称しましょう。私は平行世界の存在に気づいてから、世界をあるべき姿に戻したいと思っていました。しかし、私一人ではどうしようもできません。私には協力者が必要でした。だから、この機械で治療と称し、貴方のように女神に対する疑念を無意識に抑圧している人物を探していたのです」
「私にできることならば、なんだって協力しましょう」
「苦しい戦いになりますよ」
「構いません。これ以上私や妻のような人間が増える様を、侵略者の奴隷として指を咥えて見ていることなど耐えられない」
 これが反逆者を炙り出す罠である可能性を考えていないわけではなかった。だが、それならそれで構わない。どうせこの世界にもう妻は戻ってこないのだから。
「それでは、後日もう一人の協力者を交えて改めてお話しましょう。時間は貴方が退院する翌日の十八時。下層街の入り口を直進し、三つ目の角を右に曲がり、更にそこから五つ目の角を左に曲がってください。その路地に、ギルマンハウスという酒場があります」

 この世界は三層に分かれている。三層といっても塔のように垂直に並んでいるのではなく、階段状に広がる形だ。そしてその三層を抱き込むように、上層よりも遥かに高い壁がぐるりと巡らされている。この壁に門はなく、その向こうに何があるのかはわからない。そもそも平行世界の存在を知るまでは、疑問にすら思わなかった。それ以外にも、この世界には改めて考えてみるとわからないことが大量にある。
 神薙が下層の入口──下層に住む市民達にとっては出口となる──に辿り着いた頃には、空に月が煌々と光っていた。上層を出たのは昼頃だったから、休憩を挟んだにせよ大凡半日は歩いていたことになる。三層はこの世界の頭上を飛び交う飛行生物、ビヤーキーによって行き来することもできるが、上層から下層に向かうものは滅多にいない。そもそも、暮らしている人間の階級が異なるからだ。歩いてくるのは大分骨が折れたが、目立つことは避けたかった。
 教えられたとおりの道順を進むと、見落としてしまいそうな路地の中に「ギルマンハウス」の看板が見えた。中はそれほど広くはないが、それなりに流行っているのか、客の話し声で店内は騒がしかった。
 カウンターの隅に座る。ここで提供されるアルコールは大衆用だ。酩酊作用のある化学物質を合成されて作られた偽物。本物を浴びるように飲んでいた身では、少し舐めただけで悪酔いしそうだった。
 ほどなくして、隣の席に客が座った。横顔しか見えなかったが、まだ幼さが残る顔立ちだ。二十歳を少し過ぎたくらいか、もしかしたらまだ十代後半の可能性もある。
「あんた、聞こえるか」
 青年が前を向いたまま言った。
「ええ。貴方が?」
 極力視線を動かさないように答える。
「あんたと同じ、視た人間だ」
「プランはあるのですか?」
「まずは女の化粧を剥がす」
 この世界において黒き女神は美しい女性の姿で描かれている。しかし、橘はその正体を「悍ましい侵略者」と形容した。
「確かに、一度視てしまった身からすれば、不可解なことだらけです。当たり前のように世界が在ったから、気にも留めなかっただけに過ぎない。俯瞰してみれば、極めて不自然だ」
 互いにグラスを空け、代金を置いて店を後にする。神薙は青年のやや後ろからついて歩いた。
「この限られた世界で、どうやって市民を食わせるだけの飯を生産してるのか」
「この世界全体に行き渡るほどの電力を、如何にして確保しているのか」
 青年の言葉に続き、神薙も気づいてしまった疑問を口にした。この世界は、単体で完結してしまっているのだ。
「まともな方法だと思うか?」
「少なくとも、物理学的に自然な手段だとは思いませんね」
「もしそれが吐き気がするほどクソッタレな方法なら」
「……女神の信仰心は失われる可能性がある、というのが、貴方と先生の考えなのですね」
 青年と連れ立って歩いていくと、繁華街の中心部を外れたのか、ほとんど人気のない場所に出た。
「状況はわかりましたか?」
 暗闇から不意に橘が現れる。
「貴方がたの方針は理解できました。その上で協力したいという気持ちは変わりません」
「感謝いたします」
 神薙は周囲を見回す。依然として、自分達以外に人気はなかった。ここならば大丈夫だろう。
「お二人に手土産があるのです」
 コートの裏側から、地図とアクリル板を取り出した。地図は勿論この世界の全体図。アクリル板は、資料室から見つけ出した古い時代の地図から写しとった、今はない水路の図だ。重ね合わせることで、地下通路として利用できそうな場所を検討できる。職権を濫用させて貰った。
「先程彼と、この世界の奇妙な点について話し合っていた所です。女神の正体を暴くためには、物理的に接触しなければいけません。これだけの暗渠を全て完全に潰し切ったとは考えにくい。中枢に近づける道もあるでしょう」
「なるほど、仕事が早くて助かる」
 青年は地図を覗き込んで、ひとつ口笛を吹いた。
「そして、先程彼と話し合った謎の一つ、培養肉の正体ですが、恐らくその鍵は地下にあります。勤務中、地下からそれと思わしき物資を地上に搬入しているのを何度か見かけたことがあります」
「なら、とっとと調べに行こうぜ」
「ちょっと、今から行くつもり?」
 逸る青年を、橘が抑える。だが、神薙としてもそのつもりであった。
「私も賛成です。行動は早ければ早いほど良い。動きを気取られたら、我々の繋がりが露見する可能性が高くなる」
「その先は処刑、だな」
 二人の意見に、橘はやや考えた後に切り出した。
「わかりました。万が一のことがあれば私の診察室に逃げて来てください。身を隠す場所くらいは用意してあります。けれど決して、無理はせずに」
 暗闇の中、橘と別れて二人は動き出した。
「行きましょう。ええっと──」
「羽野颯太。颯太でいい。俺もあんたのことは楽に呼ばせてもらうぜ、神薙サン」

 夜が深まるに連れてビヤーキーの飛び交う数が増えていく。その中の一匹に紛れて、二人は中層に飛んだ。地図によれば、中層は最も中枢部分に近づけそうな暗渠が繋がっているはずだ。地図を頼りに懐中電灯で痕跡がないかを探すと、鉄格子で蓋をされた穴が、ゴミ捨て場に埋もれていた。二人がかりで格子を外す。それほど深くはなく、安全に降りることができた。幅も高さもあまりなく、窮屈ではあるが進めないほどではない。
 途中錆びた格子や、崩れかけた壁を壊しながら進んでいくと、突然周囲の雰囲気が激変した。明らかに打ち捨てられた暗渠ではない、整備された通路のように。神薙は地図を確認する。
「当たりか?」
 颯太が声を潜めて問いかける。
「かなり近い場所にいるはずです。この真上付近は、私が妻を見送った場所ですから」
「……そうか。あんた、遺族だったな」
「気にすることはありません、進みましょう」
 随分歩きやすくなった通路を進む。不意に、暗渠にはあり得ない、開けた場所に出た。静かな水音がするが、水路だとは到底思えない。
 足音を殺しながら進むと、予想だにしないものが視界に飛び込んできた。噴水だ。それも一つではない。等間隔に、複数の噴水が設置されている。
 颯太もおかしいと思っているのか、さながら狩りをする猫のように姿勢を低くして、慎重に進んでいる。
 進むにつれて、異臭が漂い始めた。奇妙に甘ったるく、それでいて複数の有機物を腐敗させたかのような悪臭だ。これほど整備されていて、ゴミが放置されているはずがない。
 床にも常に水が流れているため、姿勢を低くして進むと膝のあたりが濡れてしまう。だが、そんなことを気にする余裕がないほど、この部屋に漂う臭いは異常だった。
 慎重に進んでいくと、水と水の間から緞帳が見えた。しかしそれはボロボロで、あちこちから切れ端が垂れ下がっている──いや、緞帳ではなかった。緞帳の切れ端に、蹄がついているはずがない。
 垂れ下がった切れ端と思われたものは、四本の脚だった。だが、蹄がついていることで脚だと認識できたのであって、その形は奇妙に歪み、太い植物の蔦が絡み合って形成されたような、まともな生物の脚ではない。そしてその四本の脚は、太く長いたてがみに覆われた、蠢く肉の塊に繋がっていた。そして悍ましいことに、四本の脚の間からは、常に一定の間隔でぼとり、ぼとりと歪な肉塊が産み落とされていた。肉塊は床に開けられた穴に落ちていき、その穴からは規則的な機械音がする。まるで落ちたそれを、成形してベルトコンベアに流すような音が。
 ばしゃり、という水音で、一瞬意識を失いかけていた神薙は我に返る。すぐ横では、颯太が顔面を蒼白にして尻餅をついていた。彼がいてよかった。自分一人なら錯乱していたかもしれない。
 一度ここから離れて状況を整理しよう、と言いかけたとき、神薙の嗅覚に僅かな異変が生じた。部屋に充満している異臭は「一つではない」。
 背後にただならぬ気配を感じ、咄嗟に颯太を突き飛ばして自分も床に身を投げ出し、回転して態勢を整えた。二人が立っていた床は大きく抉れている。そこから、青い煙が立ち上っていた。
 そしてその延長線上に、人のシルエットが見えた。咄嗟に懐中電灯を向ける。ライトを浴びて眩しそうに顔をしかめていたのは、颯太よりも更に年下であろう少年だった。
 体はできあがりつつあるが、そのあどけない顔はどう見積もっても十八歳にすら達していないだろう。その少年の正体に神薙は心当たりがあった。最も女神に近づくことができるという存在──通称「女神の御子」。
「お前、なにもんだ? お前がこの化け物を呼び出したのか?」
 自分を鼓舞しようとしているのだろうか。颯太が少年に噛みつく。
「俺じゃないよ。生まれた時からずっと一緒にいるけどね」
 少年からは、こちらを警戒するような、敵視するような緊迫した様子は感じられない。それよりも、歳不相応に幼い言動にすら見えるのが、神薙には気にかかった。
「お前達、何しに来たの? それにどこから入ってきたの?」
「お前達が隠し立てしてることを暴きに来た。その気持ち悪い塊が、女神の正体か?」
「そうなんじゃない? 俺は大人が勝手に言ってるだけだと思うけど」
「……それが、この世界に豊穣をもたらしていると?」
 悪心を堪えながら神薙が問うと、少年はつまらなそうな顔をする。
「何言ってんかよくわかんないから、もっと簡単に言って」
「この世界の人間が食料に困ることがないのは、それの力なのかと言うことです」
 奇妙な感覚がする。最近の若者は云々、という次元ではない。もっと幼い子供と話しているような気がする。
「それはそう。昔は木を植えても、実が取れるまで時間がかかったんだって」
「今はそうではない、と?」
「うん。植えたものは、次の日くらいにはできるんだよ。知らないの?」
 話していて頭が痛くなってくるようだ。どうもこの少年と話していると、違和感を覚えて仕方がない。
「待て、まさか」
 突然、颯太がなにかに気づいたかのように呟いた。

「まさか、培養肉って、それが垂れ流してる肉の塊じゃねえだろうな……?」
「そうだよ。これが欲しかったの?」
 言いながら少年は「女神」が産み落とした肉塊を無造作に掴んで、颯太に放り投げた。水音を立てて床に落ちたそれは、緩慢に蠢いている。颯太は数歩よろめく様に後ずさった。
 もう、ここには長居しないほうが良さそうだ。
 神薙は足先で水流を確認すると、足を思い切り振り上げて水飛沫を上げた。狙い通り少年の目に入ったのか、彼は目を閉じて顔を背ける。その隙に颯太の手を掴んで、全力で元来た道へ走り出した。
 また、先ほど鼻を突いたもう一つの異臭がした。視界の端から青い煙が立ち上る。それが束になって固まり、こちらに向かってきた。まるで鼻先で獲物の位置を捉えて、突進してくる猟犬のように。首を竦めてその襲撃をギリギリで躱す。肌を掠めたのか、顔の皮膚を血が流れていく感覚がした。
 この青い煙の正体はわからないが、恐らく少年を守護しているか、少年に使役されている存在なのは間違いない。
 煙は次々と部屋に立ち込めていく。無我夢中で広間を走り抜ける。通路の端に、蓋がずれた横穴が見えた。咄嗟にそこに颯太を押し込んだあとに自分も飛び込み、内側から蓋を閉めた。
 飛び込んだ横穴は土管のような丸い壁で構成されている。狭いが、匍匐前進で進んでいける程度には余裕があった。異臭の気配はなく、あの広間にいた時に肌を刺していた殺気も消えていた。どうやら青い煙は神出鬼没ではあるが、ずっと形を保ったまま追ってくることはできないようだ。
「畜生、何がなんだか、わけがわからねえ」
 颯太も青い煙の直撃は避けたものの、掠り傷は貰ってしまったようだ。頬を伝う血を拳で拭いながら、吐き捨てるように呟く。
「断片的ではありますが、手掛かりとなるようなことはあの少年からも聞けました。一度落ち着いて情報を整理する必要があります」
「それもそうだ……一回戻るか」
 狭い空間を這って進んでいくと、別の暗渠に出ることができた。壁も床も荒れ放題だ。どうやら危険地帯からは逃れたらしい。見つけた梯子を上って地上に出る。
 そこは、藪の中──いや、地に根を張って実る作物が風にそよいでいる、その合間の空間であった。

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