バステトからの使者(後編)

 サイレンのような耳をつんざく音と、巨大な翼が引き起こした風圧に圧倒され、まやの体は軽々と宙を舞った。そのまま放物線を描くようにして放り出される。壁に叩きつけられ、呼吸ができずに咳き込んだ。
 ミミを守ろうと、しっかりと抱きしめて前のめりの姿勢になっていたのが幸いした。下手に頭を上げていたら、まともに強打していたかもしれない。
「大丈夫か!」
 この混乱を匍匐前進で切り抜けたらしい綾瀬が腕を掴んで起こしてくれた。だが、一息つく間もない。
「動けるか、逃げるぞ!」
 腕を引かれるが、視界の端にまやと同じように吹き飛ばされた黒服達が映る。
「リカさんが……!」
「あの子なら大丈夫だ! そうそう死んだりしない!」
 大きな破裂音がした。背後でリカが猟銃のような武器を持ち、怪物と対峙している。
 早くしろ、というようにミミが一声鋭く鳴いた。その声に押されて、ふらつきそうになる足を何とか動かして走り出す。
 館内には緊急事態を知らせるためか、けたたましくブザーが鳴り響いていた。
「緊急事態発生! 今まで越境を確認できなかったバイアクヘーが当館に侵入している! 他の生物が侵入することも考えられる! 注意して対処に当たれ、これは訓練ではない! 繰り返す、これは訓練ではない!」
 綾瀬がインカムに向かって叫ぶ。方々から警告を聞いたのであろう、武装した男女が飛び出してくる。さながら戦争中の光景だ。
「博士! こちらへ!」
 数名の武装した隊員が地下に向かう階段に陣取っている。綾瀬はまやの手を引いて階段を下る。
 その時、腕の中のミミが鋭く威嚇した。その方向を特定するより先に、眼下にあった階段の踊り場が黄色い光に包まれる。あっ、という間もなく、先を行く綾瀬の目の前に怪物が顔を出した。
「クソッタレ!」
 怪物がびっしりと牙の生え揃った悍ましい嘴を開いて齧り付こうとするのを、綾瀬は懐から取り出した棒で防いだ。恐らく特殊警棒でも仕込んでいたのだろう。
「博士!」
「俺はいい! 彼女は巻き込まれた民間人だ、命に代えても守れ!」
 綾瀬の言葉を受け、武装兵士はまやを自分達の背に隠し、怪物に向けて一斉掃射を行う。しかしそれをものともせず、怪物はかぎ爪のついた翼で彼らを薙ぎ払った。直撃は避けたが、人々がいとも簡単に吹き飛ばされてしまったその圧に負けて、まやは思わず尻餅をついてしまう。
「こいつは俺がなんとかする、君は今のうちにこの階段を下って、一番奥にある黒い部屋に逃げるんだ!」
「そんな……!」
 依然として怪物は綾瀬の武器に喰らいついたままで、双方押し合っている。このままでは綾瀬が力尽きるのは時間の問題だ。みすみす彼を置いていくなど、まやには無理だった。
 床に散らばった機関銃を拾い上げる。ずっしりとした重さにへたり込みそうになるが、歯を食いしばってそれを振り上げた。
「この……! 離れなさい!」
 階段から化け物の側頭部目掛けて飛び降りる。一か八かだ。機関銃の重さとまやの体重、それと落下の衝撃で頭部を叩けば、隙くらいは作れるかもしれないという算段だった。
 鈍い音がして、化け物の顔面に重力の援護を受けた機関銃がめり込む。目の前に爛々と光る爬虫類のような目が迫る。羽毛と鱗に覆われた体の上に落ちることを覚悟して目を瞑る。
 瞼の上から、桃色の光が差し込んできたのがわかった。
 どさりと床に落下する。だが、まやを受け止めたのは悍ましい怪物の体表ではなかった。
「あ、あれ?」
「全く無茶しやがって! だが、おかげで助かった!」
 綾瀬に受け止められたおかげで、さほど体は痛まずに済んだ。そして、辺りが異様に静かになったことに気づく。先ほどまで綾瀬に喰らいつこうとしていた化け物の姿がないことにも。
「さっきの怪物は?」
「後で説明する、とにかく奥に逃げるぞ!」
 息つく間もなく階段を駆け下りる。辿り着いたのは、先ほど綾瀬が逃げろと言った黒い扉の部屋だった。転がる様に部屋に入り、扉を閉める。
「……ここは……?」
 息切れの合間に問いかける。
「最後の砦だ。ここには平行世界から持ち帰ってきた防御の魔術が張られてる。そうそうすぐには破られない」
 言葉通り、まだここに怪物の気配はないようだ。先ほどまで気が立っていたミミも、今は落ち着いて座っている。
「それにしても信じられない。君がバイアクヘーに接触した瞬間、時空の扉が開いて奴が押し出されて行ったんだ!」
「バイアクヘー……それがあの化け物なの?」
「そうだ。平行世界で観測された生物だったが、あまりにも質量が重すぎてまだ時空の壁を超えるには至らないはずだった。だが、今日奴らは壁を破ってきた。向こうで状況が変わったというのは本当らしい。でも、君のおかげで対抗策が見つかるかもしれない」
 状況が目まぐるしく変わって、全く話が見えてこない。もう頭がおかしくなりそうだ。
「わたしが、時空を開いたの?」
「間違いない。平行世界に渡る際に観測される桃色の光が確かに見えたんだ! どういう理屈かはわからないが、とにかく君には奴らを追い返す力がある」
「そんなこと言われても……どうしてわたしが……」
 その時、ミミが大きく鳴き声を上げた。かと思うと、何度も飛び跳ねてまやのブラウスをしきりにひっかき始める。ブラウスというよりは、首の真下辺りが気になるようだった。
「いたた、どうしたの?急に落ち着きが······」
 ブラウスの上からミミの爪に引っかかったのか、ペンダントのチェーンが切れてヘッドが床に転がった。それを見てまやは目を疑う。見慣れたはずのペンダントの石部分が、桃色に輝いているのだ。
「これは……君の持ち物かい?」
「はい、母から貰ったものです。母は、女の子にずっと受け継がれてきた物、って言ってました」
「微かだが、邪神因子の反応がある」
「えっ!? そんな、わたし、怪物なんかじゃ……!」
 あんな怪物達と同じにされてはたまったものではない。必死に否定するまやに対して、綾瀬は大丈夫だ、と答える。
「わかってるよ。君からはなにも反応がない。しかし、今の今まで俺達が気づかなかったのは妙だな……。これの由来をもう少し、詳しく聞かせてもらってもいいかい?」
「ええっと……」
 まだ子供だった頃に、母に聞かされた話を思い出す。
 昔々、先祖の女が旅の途中、野盗に襲われ夜の山中を逃げていた。道もわからず、険しい獣道に力を奪われ、あわや生き倒れかという時になって、山の中から異人が現れ、彼女を匿い、追ってきた野盗も成敗してくれた。
 二人は恋に落ちたが、時代は異人と結ばれることを許さなかった。二人は引き裂かれ、異人も失意のうちに故郷に帰っていった。
 しかし、異人は別れ際に、女に石を渡した。それはお守りになり、女は生涯不幸や危険から守られた。
 それから、この石は一族の女子に受け継がれてきた。
 異人の名は「そとす」と言う。
 母は、まやが十二歳の誕生日を迎えた時にこの話をした。そして、貴方はもう立派な女の子だから、とこの石を渡したのだ。
 久しぶりにペンダントの由来を声に出してみて、もしや、とまやは思う。
「わたし、御伽噺みたいなものだと思っていたけど、この話ってもしかして……」
「ああ。恐らく、君の先祖は平行世界に触れていたんだ。そとすという名前にも心当たりがある。ヨグ=ソトースという邪神だ。平行世界にいることは確信していたが、本人があまり積極的に動く様子がなくてね。情報もなにもわからずじまいだったが……そこまではっきりと異人の名前が伝わっているということは、間違いない。おそらく、子孫に伝承するにあたって、平行世界の存在を隠すために「異人」ということにしたんだろうな」
 今より遥か昔の時代に、自分の先祖と邪神が恋に落ちた。邪神も恋に落ちる──そう思うと今まで正体のよくわからなかった邪神という存在が、少し現実的なものに感じられた。
「わたしにできることって、なに?」
 もしかしたら、邪神は全く歯が立たない、取り付く島もない存在というわけではないのかもしれない。先祖も邪神と遭遇して生きて帰れたのだから、自分にもできるかもしれない。
「結論から言おう。君に、ミミを通じてコンタクトを取ってきた邪神を呼び出すんだ」
「わたしに異変を知らせてきたのも邪神なの?でも、だとしたら邪神がどうしてわざわざそんなこと······」
 常識的に考えれば、それは同胞にたいする裏切り行為だ。
「手紙には「海の底から」って書いてあっただろ? 海に関連する邪神なら、候補は絞られる。そしてもし俺の予想が当たっているなら、そいつはバイアクヘー達の親玉と仲が悪い」
「つまり嫌いな邪神を邪魔するためにミミを……ええっと、猫の神様にお願いしてまで送ってきたってこと?」
「ああ、多分、邪神連中も単純な一枚岩じゃない。これまでの調査の中で、邪神全てが完全に団結しているとしたらありえない、不合理な行動が多く確認されているんだ」
 お互いに反目し、足を引っ張ろうとするなど、まるで人間社会のようだ。いよいよ邪神という存在が、具体的なイメージになっていく。
「なんとなくわかったかもしれない。でも、どうやって時空を開けばいいの? さっきは化け物っていう目標があったけど、それでもただの偶然でしかなかったのに」
「それはこいつが手伝ってくれるさ」
 綾瀬は部屋の中程に進むと、大きなカバーがかけられた何かの前で立ち止まる。カバーを外すと、武装兵士が装備していた機関銃を三、四倍は大きくしたような装置が姿を現した。装置を構成している部品同士の繋ぎ目や、グリップなど、あらゆる部分から桃色の光が零れている。
「これが、俺達が造り上げた次元転移装置だ。さっき君が無意識にやったように、俺達はこれを使って次元間の通路を開く」
「すごい······こんなもの、わたしが使えるの?」
まやが装置に近づくと、拾い上げた石が手の中で一層強く輝き出す。まるで装置に共鳴しているかのようだ。
「わっ……! どうして……!?」
「転移装置の基盤を作ったのは俺達だが、平行世界の研究が進んで、向こうの素材を使って何回か改良を重ねている。おそらくその石は次元転移に関わる物質で、転移装置の改良に使った素材が相互に反応しているんだろう」
 見ると、転移装置が放つ光も先ほどより強く、明るくなっている。先ほどは仄かに周囲を照らす程度だったものが、いまや部屋全体を照らさんばかりの光度を持っていた。
「いいかい? 前の壁に狙いを定めて、このトリガーを引くんだ。その間はずっと、あの手紙のことを考えてくれ。あの手紙は君とクトゥルー……手紙の送り主と君の繋がりだ。ミミが飼い主とペットという繋がりを辿って君の元に現れたのなら、手紙という繋がりを使って君が送り主にアクセスすることも可能なはずだ」
「……わかった」
 台座に固定されている転移装置に手を添えて、トリガーに指をかける。ミミがまやの脚にピタリと寄り添い、一声鳴いた。脚の暖かさに勇気づけられて、まやはトリガーを引いた。
 眩い桃色の光が装置に収束し、前方の壁に向かって一直線に照射される。壁に衝突した光は円形に広がり、桃色の門を形作る。
「今までより門の強度が高い……! やっぱり、思ったとおりだ!」
 手紙の文面を思い出すのに必死な意識の端で、綾瀬が叫んだのが聞こえた。
 門の中に、なにか影が揺らめく。人影かと思ったが、それにしては随分と細長い。影が二、三度左右に大きく振れたかと思うと、光の中から影が現れた。
 こちらに向けられた先端は細く、奥に向かうにつれ徐々に太くなっていく。そしてびっしりと、大小入り混じった吸盤が並んでいた。巨大な蛸の足だった。
 ひっ、と思わず息を吞み、まやは後ずさろうとする。あまりの衝撃に脚が震え、またしても尻餅をついた。ミミが傍に駆け寄ってくる。蛸の足に警戒したり威嚇したりする様子はなく、静かにまやの手を舐めている。まるで「落ち着け」とでも言っているかのようだ。
 ミミには蛸足の主がこちらに敵意を持っていないとわかっているかのようだ。やはり、あの蛸の足がミミを送り込んできた張本人らしい。
「大丈夫だ。この邪神は質量が大きすぎる。多分、この触手しか入ってこられない」
 綾瀬の言う通り、門から「本体」らしき影が出てくる様子はない。
「……あなたがミミをわたしの所に送ってきたの?」
問いかけると、ゆっくりと蛸足がうねる。蛸足を濡らしている粘液が床に塗りたくられ、文字を作っていく──YES。
「やっぱり、侵略を企んだのはハスターなんだな? それが気に入らないから、バステトまで使って知らせに来たわけだ」
綾瀬が問う。YESの文字列が、もう一つ増えた。かと思うと、触手はまたしても緩慢に旋回し、何かを描こうとする。ゆるゆると床に描かれたのは、斜めに歪み、中央に目を持つ、不気味な五芒星だった。
「魔法陣……?」
 その時、部屋の扉が激しく叩かれた。バイアクへーのあの蛇とも鳥ともつかない不気味な鳴き声が聞こえる。
「クソッ……! もうここまできたか……!」
 舌打ちする綾瀬の横を通って、触手が扉に伸びていく。
 粘液で扉に先ほどの印を描くと、殴られた犬のような声を上げてバイアクヘーが遠ざかっていった気配がした。
「なるほど、バイアクヘー避けのまじない……そしてハスターの弱点ってことか!」

 一方、リカはバイアクヘーとの戦いに苦心していた。
 現時点に至るまで、幸いなことにリカ自身に大きな怪我はない。しかし、隊員には既に何人も重傷者や死亡者が出ている。
 更に悪いことに、奴らが空間を渡ってくる速度が徐々に早まっている。恐らく、次元が侵略される度に次元を隔てている壁の強度が弱まり、更に侵入が容易になるという悪循環が起きている。
 親玉のハスターの侵入を許すまでに壁が脆くなるのは時間の問題だ。邪神本体が侵略に乗り出せば、瞬く間に世界は支配されてしまうだろう。ハスターだけでも脅威だが、他の邪神がこの好機をみすみす見逃すとは到底思えない。
 クソッタレ、と悪態を吐いたとき、通信が入った。まさか綾瀬とまやの身になにかあったのかと、背筋に冷たい汗が走る。
「全員に通達する! バイアクヘーの弱点がわかった、画像データを送信する!」
 携帯端末に送られてきた画像は、不格好な五芒星に見えた。中央の目がやけに禍々しい。本当にこれが魔除けになるのか?
 どういうことかと質問しようとしたとき、悲鳴のような通信が割って入った。
「地下にバイアクヘーの出現を確認!  応援求む!」
 地下には文字通り、最後の砦がある。次元転移装置の保管場所兼パニックルームだ。綾瀬とまやはそこに逃げおおせたのだろう。簡易な防御魔術は施しているが、あくまでも平行世界から盗み出してきた見覚えの技術だ。手放しに安心できるほど頑丈ではない。
 急いで地下に続く階段を下っていく。不愉快な羽音と共に、下からバイアクヘーが昇ってきた。その嘴には、隊員が銜えられている。
「クソッ!」
 切り詰めたショットガンを放つ。幸い奴らには実体がある。標準装備の機関銃程度の弾では大した傷は与えられないが、至近距離で放つショットガンの威力なら体に穴をあけることができた。
 バイアクヘーがひるんだ隙に、コンバットナイフの刃に裂傷から流れた血で先ほどの印を描く。
 南無三、と飛び掛かって、その首に刃を突き立てた。
 途端、絞殺される直前の鶏のような悲鳴が響き渡る。巨体はあっさりと床に落ちて、狂ったようにのたうち回ったかと思うと、あっという間に悪臭を放つ肉塊と化した。嘴に銜えられていた兵士が投げ出される。抱き起して意識を確認する。意識はないが、呼吸は正常だ。幸いなことに、気絶しているだけのようだった。
 リカは通信を繋いで、大きく息を吸い込んだ。
「総員に告ぐ! 魔除けの印を武器に刻め! 弾丸でも、刃物でも鈍器でもなんでもいい! 血で描いても構わない! 最大の有効打だ、バイアクヘーを殺せる!」
 その号令が放たれてからバイアクヘー達が駆逐されるまで、数十分とかからなかった。

「先生! 出現したバイアクヘーは全て掃討したわ!」
「どうやらうまくいったらしいな」
 リカの喜びが滲み出ている声で通信が入り、綾瀬はほっと一息つく。安心したのはまやも同じだ。
 綾瀬が扉を開くと、リカが入ってきた。細かい裂傷はあれど、大きな怪我は負っていないようだ。
「ちょっと! なによその蛸足!?」
 壁から巨大な蛸足が生えていれば、誰だって驚くだろう。
「おいおい、言葉を慎め。れっきとした協力者だぞ」
「ということは、やっぱりクトゥルーの差し金だったのね。これで一件落着?」
「いや、最後にハスターを迎え撃つ。送り込んだバイアクヘーが全滅したとなれば、いよいよ本体が来るはずだ。掃討したとはいえ、次元の壁はかなり脆くなっている」
「そっか。流石に大人しく諦めてくれるわけないわよね……でも、どうするつもり?」
 まやもここから先はまだ聞いていなかった。邪神の僕に過ぎないバイアクヘーがあんなに強力だったのに、邪神そのものがこの世界に来るなんて、大丈夫なのだろうか。
「そうだな、結論から言おう。平行世界を十一次元に吹き飛ばす」
「なにを……本気で言ってるの?」
「十一……次元……?」
 いよいよわけがわからなくなってきた。発熱しそうで、まやは額に手を当てた。ほんのり熱い気がする。
「ざっくり言うぞ。俺達が存在しているこの次元は四次元。同じ四次元上に平行世界が存在してる。世界同士が平行しているから、互いの世界を認識して干渉できたんだ。十一次元は未知の世界。理論上、十一次元はあまりにも強いエネルギーを帯びているせいで、下位の次元を観測、干渉できなくなるんだ。そして現在の科学では、四次元から十一次元にアクセスする手段なんか当然無い。世界は完全に分断される」
「それじゃあ、邪神を十一次元に飛ばすこともできないんじゃ······」
「そこで鍵になるのは君だよ」
「えっ?」
 まやは素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ハスターが侵入しようとする力と、こっちが扉を閉じようとする力を正面からぶつけるんだ。指先だけとは言え、君はとんでもない質量のクトゥルーを呼び出した。つまり、君が放つ力は邪神と同等だ。邪神レベルのエネルギーが正面衝突すれば、莫大なエネルギーの奔流が起こる。一瞬だけなら、十一次元にアクセスできるはずだ」
「理論上はそうだろうけど……まあ、私は銃を撃つしか能がないし、そこは二人に任せるしかないわ。それで、私達戦争屋はどうすればいい?」
「あの印を館内すべてのドアに描いてくれ。ハスターの出現をこの部屋に限定するためだ。干渉できる空間を限定されて、更にクトゥルーの気配があるとなれば、ハスターはここにしか手が出せなくなる。準備ができたら、動ける兵士の中から精鋭を厳選してこの部屋に戻ってくれ。万が一の時に備える部隊が欲しい」
「了解。それじゃあ、またあとで」
 リカは踵を返して部屋から出る。集合の合図を送る声が聞こえた。
「……最終的に君に頼ることになってしまって、本当に申し訳ないと思ってる」
 綾瀬が言いにくそうに切り出した。
「そんなことない。でも、わたしに本当にできるのかな……それだけが不安で」
 言いかけた時、ミミが大きく鳴いた。しゃんとしろ、と言いたいのだろうか。
「……そうだね。ミミが頑張って知らない世界に来たのに、わたしが頑張らないわけにはいかないよね」
 ふかふかの背中を撫でると、自然と気持ちが落ち着いていった。
 ほどなくして、館内の全てのドアに魔除けの印が施されたと報告があった。リカに率いられた精鋭部隊が部屋の至る所に息を殺して潜み、邪神が現れるだろう壁に銃口を向けている。
 それからどれくらい経っただろうか。わずか数分だったようにも、数十分だったようにも思える。クトゥルーの触手をこの世に繋ぎとめている次元の壁が、不安定に揺れ始めた。時間だ、と言うように触手は自分の眠る海底に戻っていく。
 指先が門の向こうに消えてしまったと同時に、門が壊れかけたテレビの液晶が写す映像のように、激しく揺れて乱れ始めた。まやの足元に寄り添っていたミミが激しく威嚇を始める。まやは汗が滲む手で、転移装置のグリップを握り直した。
 室内に窓などないのに、嵐で風が吹きすさぶような音が聞こえてくる。
 砂嵐のように乱れる次元の扉に、黒い影が落ちる。それは、レインコートを被った人間のシルエットによく似ていた。
 バキン、という甲高い音が響いて、壁にヒビが入った。シルエットがこちらに近づく。
 バイアクヘーが現れた時とは比較にならない、それこそ一面のガラス戸を全身で飛び込んで粉々に破ったかのような、大きな音が響いた。耳鳴りになりそうだ。
 次元の門はもう門の体裁を取ることすら放棄し、煌々と炎のように燃え盛っている。その炎の渦の中心から、背の高い、ボロボロになった黄色い布を被った何かが手と頭を出した。布の下には顔──の代わりに、ヘドロのような触手が無数に蠢いていた。
「今だ!」
 綾瀬の叫び声のおかげで、まやはなんとか悲鳴を上げるより先にトリガーを引くことができた。桃色の光線が次元の裂け目から這い出ようとするハスターと衝突し、明滅する。
 顔面と思わしき箇所にエネルギーをぶち当てられたハスターは、もがく様に手を泳がせる。それも「手」に見えていただけで、正体は触手が群体になり「手」のシルエットを作っていただけだった。それぞれの触手がてんでバラバラな方向にもがいたり痙攣したりして、醜悪なことこの上ない。その様子から察するに妨害はできているのだろうが、一向に引いてくれる気配はなかった。互いの力が拮抗しているように感じられる。
「撃て!」
 綾瀬の号令で、部屋中に息を潜めていたリカ達が一斉に発砲する。少しだけ押し返したようだが、やはり邪神は力強さが違うのか、バイアクヘーのように力尽きることなく踏みとどまっている。
「撃て! 隙を作るな!」
「ちょっと! もっと出力あげられないの!?」
 ショットガンを撃ちながらリカが叫ぶ。
「最初から限界まで出してる! これ以上はバーストするぞ!」
 それを聞きながら、まやは強くグリップを握り、文字通り祈った。足元ではあの石が激しく点滅している。
 お願い、あいつを押し返して。なにもかもを無駄にしたくないの!
 衝撃に慣れたのか、またしてもハスターが前進しようと蠢くのが見えた。
 ダメか、そう思った時、ミミが明滅する石を咥えた。
 まやを見上げて、ゆっくりと瞼を閉じて、開く。かと思うと、身を翻してハスターに向かっていった。
「ミミ!?」
 石を咥えたミミがトップスピードで飛び上がり、ハスターと衝突する。途端、室内は台風が吹き込んできたかのような、激しい風に満たされた。
 エネルギーがぶつかり合う中心地では、桃色の炎がメラメラと上がっている。ハスターの力が弱まったような気配がした。部屋中に満ちていた圧が、澱んでいた空気が、間違いなく軽くなり始めている。だが、依然邪神を次元の向こうに葬るには至らなかった。
 やっぱりわたしじゃダメだったのかな。まやは泣きそうになった。邪神への恐怖より、自分の力が及ばないことに対する悔しさの方が遥かに上回っている。
 わたし、またミミとお別れしたのに。ここで邪神に負けたら、ミミの頑張りも、お別れも、全部が無駄になっちゃう──。
「そんなの、絶対に嫌!」
 無意識に叫んだ。
 ミャーオ、と風の中で猫の鳴き声がした。この嵐の中でも聞こえるほど力強く、物々しい喇叭のような鳴き声だ。
 ハスターの背後に、大きな丸い影が広がった。影の頂点に、二つの突起がぴょこんと飛び出す。それはまさしく、巨大な猫の頭部に相違なかった。
 ミャーオ、とまた鳴き声がする。
 すると、ハスターがじりじりと押し返されていく。いや、押し返されると言うより、向こう側から引きずられているような動きだ。まるで、猫に尾を咥えられた鼠のように。
 顔が飲み込まれ、もがく触手も引き摺り込まれ、その先端すら見えなくなった時、炸裂音と共に発生した爆風に煽られ、まやは床に放り出された。まやだけではなく、武装した兵士達もどさどさと落ちてくる。幸い、バイアクヘーの風圧よりは穏やかで、今度は息苦しくなることも、咳き込むこともなかった。
「まやちゃん、大丈夫か!?」
 綾瀬がよろめきながら駆け寄ってくる。彼も吹き飛ばされたのだろう。
「先生、中央から緊急通信。平行世界の反応が消失、観測不能になったそうよ」
 リカが大儀そうに起き上がりながら報告した。
「終わった、の……?」
「ああ、終わったんだ! もう邪神達は四次元に干渉できない! 君のおかげで世界は救われたんだ!」
 嬉しい、という気持ちよりも安堵の方が大きかった。そして、改めて二度もミミを失ったことに対する悲しみが滲み出してくる。
 いや、やめよう。ミミが最後まで強くあったのに、自分がしょげているわけにはいかない。
「これからすぐにでもセラピーを受けよう。精神的なショックが……」
「ううん、わたしは大丈夫。やらなきゃいけないことがたくさんあるから、早く帰らないと」
 明日からまた遅れている文化祭の準備も進めないといけない。
 そして、また猫を迎えよう。捨てられたり、親猫を失ったりして保護された猫を、新しく家族に迎え入れよう。二代目のミミとして。

「行ってしまったわね」
 遠ざかる車を見つめたまま、リカは呟いた。もう空は白み始めている。
「あの子、本当に大丈夫か?」
 綾瀬には不安があった。たった一晩の間に、まやの世界は一変してしまったのだ。無事に生きて帰れたとはいえ、何も知らなかった、以前までの日常に戻るのは難しいのではないか。
 すぐにでもセラピーを受けさせたかったが、当の本人は大丈夫、と微笑んで行ってしまった。
「きっと大丈夫。女は意外と強いのよ」
 リカはきっぱりと言い切った。
「それにしても驚いた。まさかあの子、ヨグ=ソトースの末裔だったの?」
「恐らくな。彼女の祖先がヨグ=ソトースと邂逅し、子供を産んだんだろう。だからあの石の力を引き出せるのは、一族の女だけだったわけだ。しかし、邪神因子が探知できないくらい血が薄くなっていたのに、それでもあれだけの力を持っていたとは……恐れ入ったよ。つくづく、あの世界を十一次元に放りこめてよかった」
「彼女もこれで、普通の女の子として生きられるものね」
「まったくだ。願わくば、この一夜のこともそのうち忘れることができたらいいんだが」
 二人は踵を返し、車の姿が見えなくなってしまった道を後にする。まだまだ戦後処理が嫌になるほど残っているのだ。
「しかし、今回割を食ったのはクトゥルーかもしれないな。ハスターの足を引っ張ってやろうと思ったのに、まさか世界丸ごと十一次元に飛ばされるとは思ってなかったんじゃないか」
「邪神が善意で助けてくれるはずがないものね。自分のパイも無くなって後悔してるんじゃないかしら。食べ物の恨みは恐ろしいから、やっぱり十一次元に飛ばしておいてよかったわね」
「ああ、まったくだ」

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