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当事者ではない人たちの役割


大きな出来事があった時、世界が心を痛める。その中で「当事者ではない私たちは何ができますか?」という問いを聞く。

今回の問題(これは何と呼んだらよいのか?パレスチナ問題?イスラエル問題?ガザ攻撃?中東問題?人権問題?)にしても、ウクライナ侵攻にしても、東京電力原発事故にしても、同様の問いを聞く。

これは、世界中で起きていることが瞬時に伝わり、なおかつSNSの影響で単なるニュースというよりは、より現場がリアルに伝わってくるようになったから、無関心ではいられなくなったというのもあるのかなと思う。

歴史学者のハラリ氏は、イスラエル人としてこう答えていた。「当事者は悲しみや怒りなど感情の中にいる。でもそうではない人は、平和のスペースをつくってほしい」と。

https://www.youtube.com/watch?v=eVhGKMmqikY


聞いた瞬間は、具体的にイメージできなかったけど、その大事な意味が数日たって解ってきたように思うのでメモしておく。

どっちが善で悪か、どっちが勝つべきかということではなく、「人を傷つけるのをやめろ」というところにしっかり立つことだと私は解釈した。いくつか前の投稿に「正義ではなく人権に軸をおくこと」について書いたけど、そこにしっかり立ち続けることが自分ができることかと思った。

経済や支配や権力を軸にしているこれまでの古い世界観から変えていくのは容易ではないけど、変わるべき時期にすでに入ってきている。

何日か前に、そのように投稿しているけれど、できるだけニュートラルに情報をとろうとしたり、様々な立場の意見を聞いていくと、どんどん分裂、分離感、絶望感に浸食されていく感覚を感じる。

じゃあ、見なきゃいいのかというと、そうでもないと思う。現状と最悪の可能性を理解しつつも、そこには巻き込まれない。

自分の中では、いろいろ見ている情報の中で、人間の中にある善意、未来につながる種のようなものが育っている確信もある。誰か救世主が来て助けてくれるのではなく、確実にひとりひとりの中に育っている種が発芽することに力を注ぎたい。

何ができるかわからないけど、それを考える。

ハラリ氏の言うこと、自分が原発事故のさなかにあった時に思ったことにも共通するとも感じた。当事者じゃない人たちにやってほしいことは、犯人捜しや悪にフォーカスすることではなく、これ以上同じことが繰り返されないよう、これからのビジョンをしっかり考えて描くことなのだ。

自分の中にある脳天気なほど、未来を確信しているところは人生生きてきて自分の特質の一つだという気がしている。どうやって発揮したらいいかわからないけど、ちょっと考えてみようと思う。

人類いつまでたってもバカだと思うけど、でも大事な種は育っていると感じるのでそれを信頼したい。それでもだめだったらその時はその時なので、今やることは、最悪と絶望を抱えながらも、光に焦点を当て続けること。




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