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一人で生きたい人への提言と賛歌

世の中には二種類のタイプの人間がいる。
犬タイプと猫タイプだ。

犬と猫

面白いのは、猫タイプが必ずしもネコ好きだとは限らないこと。
それは、犬タイプにも同じことが言える。

このテーマを読んでいるあなたはおそらく単独行動が好き、
一人でいるのが好きな猫タイプの人だろう。
だから、猫タイプを主体に話を進めていく。

-猫タイプ-

猫タイプなのに犬のような生き方を強いられたり、自分で
強いてしまっている状態だと、とてもキツイ人生となるだろう。
猫は集団行動や縦社会、ガチガチのルールの中では当然、生きづらい。

猫というのは自由と安全が保証されてるからその家に居着く。
自由ゆえに、猫本来の魅力も発揮できるし、人間たちからも愛される。

彼らは、プライドが高いと言うより、使われる側になるのも
使う側になるのもゴメンなのだ。
組織というもの自体が苦手、不得手なのだろう。

現行の人間社会はどうあがいても、犬タイプが生きやすいシステムになっている。
協調性や統率、命令系統、会社内の派閥争いなど、おそらく猫タイプのあなたはこのような会社の構造に心底うんざりしてるだろう。

猫はそれでも、人々から重宝され、生きていけてる。
それは、あなたにもできるはず。
猫にできるのだから、猫タイプのあなたにならできる。

条件は唯一つ、あなたが猫のようであること。
猫のようであること、とは喉をゴロゴロ鳴らしたりすることではなく、
単にあなたが”あなた自身”であること、である。

猫は決して妥協をしない。
自分が属する家や飼い主が気に入らなければ、さっさと出ていく。
そして二度と帰ってこない。
猫は媚びないし、芸を覚えたりもしない。
彼らは甘えることはするが、それは媚びではない。
芸を覚えるものもいるが、その手のタイプの猫は遊んでいる感覚なだけ。
遊びが先で、結果に芸の習得がある。

常に、猫は猫自身である、ということを忘れてはならない。
猫が犬のように振る舞ったり、誰かのマネゴトをすることはない。
彼らは気まぐれだが、常に行動は一貫している。

同じように、あなたが”あなた自身”なら、一人で生きることは難しくない。

必要ならいつでも友人や恋人をつくればいい。
だが、あなたはどんな相手にも、決して依存しないだろう。
依存しないから、相手に過剰な期待もしない。
期待をしないから、相手が期待に答えてくれなくても、不満が生じない。
一人で生きる者は、大概のことは自分でするので他者への期待が自然に
薄くなる。

そもそも相手が常に、あなたの期待に答えてくれる義務などない。
二人の関係がうまくいかないとしたら価値観の違いを除けば、たいがい
この”期待のしすぎ”が問題だ。

一人の場合、仮に関係がこじれても、また一人に戻るだけ。
それはいつもの状態に戻る、ことを意味する。
必要ならまた別の相手を探せばいい。
何もパートナーや親友を特定の誰かに限定する必要はない。

一人で生きる、とは自由に生きる、と同義である。
”孤独”や”孤立”とは似て非なるもので、
それは”一人にこだわること”ではない。

猫は猫同士、相性が良ければ一緒に遊ぶし、人間とも暮らす。
ただ、彼らは彼ら自身でありたいだけだ。
それが阻害されなければ、何も問題はない。
あなたもそうだろう。

そのために日本人は、あるシステムを作った。
作ったというより、自然にできた。

「本音と建前文化」である。

私は常々、日本人は猫タイプが多い、と感じていた。
これは、意外に思うかもしれない。
農耕民族で集団性が強い、というのが、一般的な見解だから。
が、それはフェイクである。

では同じく、日本に根づく社交辞令や仮面文化はどうだろう?
本音と建前が違うのは、集団生活を円滑にするための非常に高度な
コミュニケーションツールである。そのことはみんな重々承知だと思う。

これはつまり、自分自身であることを守ろうとする手段でもある。
仮面をかぶる、ということは、要約すると
「私はここでは、周囲に同調するが、本音は違いますよ」
ということの意思表明を指す。

つまり、全体の利益のために妥協はするけど、自分自身は完全に否定派です、ということだ。仮面をかぶることで、自分自身の見解を守っているのである。
「意見は譲るけど、私の魂まで売り渡す気はないよ」と。
そう、日本人はすこぶる賢いので協調はするけど、自分自身を否定まではしないのだ。

だからこそ、日本の社会には「建前と本音」文化が根づいた。
猫社会なら必要なかっただろう。
だが、複雑で多様な人間社会では、このようなシステムを導入する以外になかった。そしてこれこそ、日本人が猫タイプが多いことの証左になっている。

我々日本人は
「表面上、協調はするが、心まで売る気はサラサラない」
というのが本音なのである。

そして、仮面文化は自然と、他者との適切な距離感を生むことにもなる。
だから、日本人は集団行動の中にあっても、軋轢が生じにくい。

この事実の証明を物語る、もう一つの証拠がある。
それは、日本人の”愛国心の欠如”だ。

国を愛するより、自分自身を愛することのほうがナンボも大事だということを肌で知っているのだろう。
世界的に見ても日本人の愛国心の無さは眼を見張るものがある。

自分を大事にするからこそ、他人をも大切にできる。
日本人が世界中から、”精神レベル”の高さを指摘されるのも頷ける。

日本人一人ひとりが、自分を大切にすることで他者をも大切にした結果、
それが、”和の国”たるゆえんである。

愛国心が希薄なために、他国の文化への理解も極めて柔軟性が高い。
それは、言語によく現れている。
日本語はとてつもなく横文字が多いが、これは日本語が他の言語を受け入れやすい作りであること、そしてそれは他国の文化を受け入れやすい、ことにつながっている。

ただ、ここでいう”自分”とは自我=エゴのことではない。
もっと本質的なものを指す。
一般的な”個人主義”とは一次元、レベルが異なる。

記事「にゃーと鳴く猫」も参照されたい。


-森と樹-

世の中には二種類のタイプの人間がいる。
森タイプと樹タイプだ。

森タイプは、森の中で育ち一生を終える木。
樹タイプは、広い草原などで一本、ただひたすらに屹立する樹。

森タイプは、その中の一本の木を見れば明らかだ。

幹が細く、いびつな形をしている。
これは、養分となる光を我先にと吸収しようとするために起こる。
周りの枝に気を払いながら伸びるので自然に歪み、細いまま成長する。
だけど、森は互いに木同士で支え合えるため、細くていびつでも大丈夫。
嵐が起きても、折れたりすることは少ない。

デメリットは火事。
一度火が回れば多くの木が巻き添えを食らう。
これは、人で例えると、集団ヒステリーや暴徒などの熱狂を表す。
どちらも一度火がつくと消化は困難を極める。

樹タイプは日立の懐かCM”♪この木なんの木”みたいな人だ。

土の養分も光も取り放題なので、あわてて伸びる必要がない。
森のように、我先にと伸びて光を奪い合う必要がないのだ。
その代わり、成長が遅い。
支えてくれる木が周りにないため、幹がしっかり太く成長し、
根も深く張りめぐらさないと嵐で倒れてしまうから。

このページを見てる人は”樹タイプ”の人が多いだろう。
成長が遅いため、なかなか芽を出さなかったり、結果が出ないことに
四苦八苦してるかもしれない。
だが、それはまだ成長の段階だということ。

あなたが一人でも、世間の荒波、嵐にあっても倒れてしまわないように、
あなたの出番が来る時期を見定めている、ということだ。

ひ○ゆきのアホが「40までに結果を出せない奴には、その後はない」
みたいなことをYoutube動画で偉そうに言ってたりするが、年齢がいってても気にすることはない。
問題は年齢ではない。
あなたの魂、もしくは本質がそれを求めているかどうかだ。
そうであるなら必ず実は結ぶ。

忘れてはならない。
草原に立つ一本の樹がいかに美しく育つかを。
ドーム状に展開された枝葉の豊かさを。
嵐にあっても微動だにしない、たくましい巨大な幹を。
巨人の手のように大地を掴む、縦横無尽に伸びる根っこの力強さを。


一人で生きたいと願うあなたは、これからそうなるのである。
一人で生きるのは大変だろうが、それはあなたが望んだことだ。
だから、なぜ自分だけ?とは思わないだろう。
いや、思うこともあるだろうが、いずれそうは思わなくなる。

あなたが一人で生きたいと思ったのは偶然ではない。
できるから、そう思ったのだ

そして大樹になったら、あなたは多くの人々に称賛される。
いろいろな土地に育つ名木のように、多くの生命体があなたの所業を見に来てはその立派な姿に心を打たれるだろう。
それまでの苦労など、すべて吹き飛ぶ。

だから、自分の本質を見誤らないように。

気をつけなければいけないのは、エゴだけでやろうとすることだ。
それは、碌なことにならない。
自分の意志だけを頼りにするのではなく、全身全霊で生きる。
自分のすべてで生きる。

一人で生きることには利点もある。
自分と向き合う時間が嫌でも増えるため、自分の本質を見極めやすく、
結果、軸もブレにくくなる。

あなたがどんなに自分を過小評価しても、あなたの魂、本質は無傷のままだ。だから心配はいらない。

樹だってはじめは、種だったのだ。
手のひらに乗るくらいのちっぽけなモノだ。
それはいずれ、途方も無い質量を持つに至る。

あなたが本当に一人で生きたいなら
決して、あなたの本質を見誤ってはならない。

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