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無有 8 争わないということ

 遠い昔 この地にはそれはそれは高い山があったとアクルは聞いていた。いまは見渡す限りの平野だ。噴火により山は崩れたという事で確かに土は赤茶けていて乾燥してはいるが、美しく美味しい水があちらこちらからふんだんに湧いている。おかげで森は豊かな実りをもたらしてくれた。人々は森から葉や、木の皮、実をいただいたり、協力して狩りを行い動物や魚の命をいただ生活を営んでいた。
 アクルは幼いころから聡明かつ穏やかで誠実な人柄で皆から好かれ、自然とアソと呼ばれるこの地に住む人々の中心となっていた。アクルには二人の息子がいた。アクルに似て聡明で利発的な兄リヤンと、真面目で少し心配症の弟テムト。アクルと妻のニナにとってどちらの子も愛おしい大切な存在だった。
 祖先が開拓し 住みやすくしてくれたここで大地と風と太陽と共に暮らし、皆とともに平和な日々を送ることがアクルの何よりの望みである。二人の息子に、道具の使い方や作り方を教え、森で迷ったときの対処法や、歌う事、踊ることは頭と肉体と魂を繋ぐ大切な行為だという事や、狩りで一番大切なことは命と向き合うことだと日々の暮らしの中で自分が感じたこと、学んだことを伝えていった。早く父のようになりたいと二人の息子は真剣に聞くのだった。
 そんな小さな平和が崩れようとしていた。ここ数日前から風が嫌なにおいを運んできている。アクルはこれから起こるだろうなにかを感じていた。ただの杞憂に終わればいいと思いながらも、子どもたちが眠ったのを確認し、ニナに伝えた。

「胸騒ぎがする。もし私の身に何かあれば子どもたちを連れて東へ向かいなさい。東の地には古くからの仲間がいると聞いたことがある。アスカという名前を頼りに向かうといい。」

ニナはアクルからの言葉にさほど驚かなかった。ここ数日彼の様子がいつもと違うと感じていたからだ。

「本当はあなたと一緒にいたい。けれどわたしがいることがかえってあなたの心配の元になってしまうでしょう。子どもたちとともに安全な場所まで必ず逃げ切ります。」

兄弟は息をひそめて父と母の会話を聞いていた。実はここ数日の父の様子がおかしいことにリヤンもテムトも気づいていたのだった。二人にも何かただならぬことが起きるような予感があった。無慈悲なことにそれは思ったよりも早かった。次の日の朝早く北の森の奥から煙が立ち上っているのが見えた。煙はすぐに消えたが つまりそれは彼らがもう出発したということを意味していた。準備が間に合わない。アクルは少し焦りを覚えた。急いで家族を起こした。

「ニナ、昨日言っていたことが思ったより早く起きてしまったようだ。ニナとリヤンは西の山へ向かい木の枝を折り、足跡をあちこちに残してみんながここを通ったように見せる痕跡を作ってきなさい。」

「テムトは村のみんなに荷物をまとめ東の地に逃げるよう知らせなさい。
頼んだぞ。」




#創作大賞2022

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