思考する言語

米国の実践心理学者のスティーブンピンカーさんがこんなタイトルの本を出していましたね。今回、その本の感想を書くわけではありません。最初にお断りしておきます。

知人のマレーシア人の知人(有体に言えば、私にとっては他人)の子供(現在中学1年生)が問題児ということで、いわゆる発達障害かどうかの診察を受けたそうです。診断の結果は、発達障害ではなく適応障害だったとのこと。
その子はマレーシア人ではあるものの、米国生まれなので彼の基本言語は英語(米語)らしいです。そして、彼らの家族の母国語はマレー語です。さらに彼ら家族は現在日本にいるので、彼自身が望まなくても日本語の勉強もしなければなりません。

医師のところで彼は、「何かを考えるとき、僕は英語で考えている」と発言し、それを聞いた母親が、「マレー語じゃないの?」と驚いたそうです。
もちろん彼の家族の思考言語はマレー語ということでした。

彼がなぜ問題行動を取るのか?医師はこう言ったそうです。
「彼が英語を話すときは、年齢なりの思考ができています。でも、日本語を話すとき彼はその(言語)レベルの年齢になってしまう。彼は発達障害ではありません。適応障害なのです。」

人間が何かを考えるとき、もちろん言語を使って考えるわけですが、その言語がしっかりしていないと思考がまとまらないということなのですね。
よく、「英語の早期教育よりも、しっかりした日本語を勉強したほうがいい。」という意見を聞きますが、こういうことなのかと、今更ながら実感しました。

人間は考える葦である。
つまり、考えられなければ、ただの葦になってしまいます。
そして、考えるために必要なのは言語であり、その言語をきちんと習得することが教育課程においては大事ということなのでしょう。

以前、ラジオを聴いていたら(確か京都大学の藤井聡さんだったと記憶しています)、
「私は、理論的に思考するときは英語を使っています。主語と述語がしっかりしている言語の方が、考えがまとまることが多いからです。」
というような話が流れてきました。
そのときは、「なるほど、そういうものかな」と思っていたのですが、最近少し英語を使うことがあって、そういうときはやはり自分もしっかりした主語を意識しています。そうしないと伝わらないし。
自分レベルの英語でも、言語によって思考方法は変わります。

幼いうちにさまざまな言語を習得するメリットはあると思うところもあります。
たとえば発音。これは、如何せん早く始めた方が正確な発音ができますね。
間違いなくそうだと思います。
でも、発音さえできればいいのかという問題もでてくるわけです。

日本語だって同じです。
標準語を話すかどうかより、何を話すかどうかの方が大事。
そして、話をするためには思考をする必要があるわけです。
その思考を深めるためには、もちろん豊富な語彙とか、文法も必要になるでしょう。ということは、他言語を習得するよりもむしろ、きちんとした日本語を習得したり、さまざまな物語に触れて、自分のものにすることが外国語を習得することよりも本当に大切だということがつくづくわかります。

ジョージ・オーウェルの1984の物語の巻末に、ニュースピークについての解説が載っています。
あの世界では、人民?から思考を奪うために言語をより少なくする方向に統制しています。
たとえば、「よい」と「わるい」という言語があれば、「よい」と「よくない」にして、「わるい」という言語をなくするというようにしていくと。
東南アジアの方の英語はまず伝えることに主を置いているので、「good」と「not good」で教えるそうです。

その方が単純だから。

教えやすい、覚えやすい。
その視点だけで言語を獲得しようとすれば、それは有効な手段だということにはなるし、どうしてもその言語を使用せざるを得ない環境であれば、それも仕方のないことだとは思うけれど・・・。

思考するための言語について、もう少し深く考えていきたいとつくづく感じた最近の出来事でした。

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