見出し画像

思想の断片日記(漫画の感想など)

 『ジョジョの奇妙な冒険』、第四部の半ばまで読んだ。岸辺露伴は、漫画家の職業病ともいうべき性質をこれでもかとばかり強調して描かれていて、荒木先生自身を投影しているのかなという月並みなことを考える。岸辺露伴の性質は、小説家や画家などにも通底するものだろう。

 ここまでの主人公、ジョナサン、ジョセフ、承太郎、仗助。どの主人公も少しずつ性格が違っている。先生はどういう狙いで彼らの性格を決めたのかなあと妄想する。そのことは『荒木飛呂彦の漫画術』に書いてあったような気もする(この本、小説を書く人にも面白く読めると思うのでお勧めである)。私は誰に一番共感するだろうか。

 ジョナサン……正義感溢れる貴族。高潔だがお人好し過ぎる点がある

 ジョセフ……お調子者で、一見のらりくらりとしているのに知恵が回る

 承太郎……クールで賢く、高貴さもある

 仗助……お調子者風のヤンキー、切れたらヤバい奴

 うーん。承太郎はジャンプ王道カッコいい主人公なんだけど、むしろこういうキャラって敵役っぽい。カッコよすぎて引っ掛かりに欠ける。第三部は、ジョセフやポルナレフなど、全然違う性格の登場人物が他にもいたから、承太郎が王道カッコいいでいられたのだと思う。しかし、話としては、第三部のワクワク感、バランス感覚が一番面白かったように思う。

 あ、ところで、もしスタンド能力を得られたら、どんな能力が欲しいですか? 私は岸辺露伴のヘブンズ・ドアめっちゃ欲しいなって思った。スタープラチナもいいけど。

 というわけで、一番好きなのはジョセフだな! ジョセフが初登場した時は、高潔なジョナサンと比較して、なんてチャラくていい加減な男なんだ! とイライラしたけど、この中で一番可愛げがあって味わい深いのはジョセフのように思う。三部でも活躍したしね。仗助は、ちょっと髪型が……(以後、紅茶からの通信は途絶えている)

 でもさ、ジョジョにおける女性の扱いって結構ひどいよね。リサリサですら最初は馬鹿にされていたし、主人公の母や恋人以外の大抵の女は嫉妬深く思い込みが激しく主人公の本質を知らないままにキャーキャー言うだけのモブアクセサリー的存在……。時代のこともあるし、この物語は男による男のためのもので、ホモソーシャルをいかにうまく生き抜くかというのがサブテーマなので、これでいいのだろうけど、それにしても。身近にあるのがこういう物語ばかりの環境で育ったら、女を同じ人間だと思わなくなるのも道理かもしれない。

△ △ △

 九龍ジェネリックロマンス(リンク先で最初の数話を試し読みできます)を読んでいる。同じ作者の『恋は雨上がりのように』のコンセプトに首肯できないタイプの人間なので、絵柄は好みだけど手を付けられないでいたが、他のコミックと併せて借りてみたらはまった。ただの恋愛漫画だと思っていたが、SFサスペンス要素もあって興味深い。これは、単行本を手に入れたいやつ……と思って読み進めた三巻で盛大な誤字を発見し、なえてしまった。漫画は中二病っぽい漢字の当て字が頻発するなど、表現表記は緩い方なのだろうけど、この送り仮名間違いはなかろうよ。調べてみたら、今はその送り仮名も許容とする向きもあるらしいけど、イヤ、私は絶対許せない!!

 でも話の続きは気になるので、結局既刊分を全部借りて読んだ。かつて香港にあった九龍城という違法建築アパート群を舞台にした話で、先々月に九龍城の写真絵本みたいなのを読んでいたのでシンクロニシティだった。まだまだ伏線を張られまくっている状態なのだけれど、Amazonレビューでは「話の進展がないのでもう離脱します」という意見が散見された。送り仮名のことで熱が冷めた自分は人のことを言えないが、今の読者はそんなにも待っていられないのか。これが十巻だったら、確かにもうそろそろ種明かしして欲しいとジリジリしてしまうだろうが、まだ五巻だし、チラチラとこの舞台の危うさについてのほのめかしはなされていると思うから、個人的には、まだしびれを切らす段階ではないように思う。

 しかしながら、たとえ同じ話の筋であっても、見せ方や順番などを変えれば、こう発言する読者を減らせる可能性はあるだろう。漫画の場合、一巻ごとの起承転結は作品の印象に大きな影響を与える。巻の最終話は、次巻を期待させるために特に重要だと思うが、その最終話の引っ張り方が、毎回同じだと「またか」となるのだろう。

 ちなみに、私が先般ギャーギャー騒いでいた『ヴァニタスの手記』の作者も、伏線を広く張って、回収までに時間がかかるタイプの作品を書く人らしい。しかし、ヴァニタスの人はなんだかんだ読者が付いていて、Amazonでも途中離脱を宣言する人が出るのはこの作品ほど早くはないみたいだ。それは、吸血鬼とスチームパンクという、伏線を張られることを読者が覚悟しやすい題材だからなのか、前段落で述べた、各巻ごとの物語の持って行き方が、ヴァニタスの作者の方が一枚上手だからなのか、どっちなんだろう。絵が上手くて、しかも一定の属性好きに刺さる絵柄だと、それだけでファンを得られるということもありそうだけど(逆に九龍の絵は、人を選ぶ絵柄だと思う)。ちなみに私はまだヴァニタスの手記を買う決心がついていない。

 だって今、金カムと、違国日記と、3月のライオンと、女の園の星と、乙嫁語りと、SPY×FAMILYと、天デ部と、ブルーピリオドを……買ってるし……。あ、あときのう何食べた? と、ドリフターズもだ……。さんかく窓も買い始めちゃったし……(これは完結してるからOK枠に入ってる)。

 しかし、書き手視点で物語を読むのは、いいことなのかどうか。それはそれで面白いんだけど、純粋に物語を楽しむのとはちょっと違う気がする。でも、純粋に物語を楽しめるのはごく一部の作品に限られるのだよなあ、私の場合。初見は純粋に物語を楽しんだ、惚れ込んだ作品も、好きになったがゆえに何度も読み返し、物語の構造を分析し始めるのだから始末に終えない。

△ △ △

 メダカが相変らず生き延びない。一昨日だったか、四匹同時に死んでしまって、しかもその四匹が目に見えて大きくなってきたうちの四匹だった。急に寒くなった直後のことで、原因はそれかなと思うのだけれど、峠を越したつもりでいたのでショックが大きかった。思わずママ友にLINEしたくなり、「いやまて」と思い返して送るのをやめた。「メダカが生まれたー!」なら送っていいけど、いきなり「メダカが死んだーぴえんぱおん」はダメだろ。

 そこで改めて思ったのだけど、SNSは、リアルよりもどこまで書くかの境界が緩む。少なくとも私は。

 Twitterには、その人が寝坊したことや今日の朝ご飯、仕事がだるいとか上司の愚痴とか帰りに赤信号ばかりひっかかったとか推しが尊いとか、まあ他愛のないことが山程垂れ流されている。私が今Twitterをしていたら、メダカの様子について逐一ツイートしていたはずだ。なにせnoteでも書いているんだし。なぜ、ママ友へのLINEをやめた時のようにSNSでは自粛しないのか。

 あくまで私の場合、しかもツイ廃だった頃の私の場合ということだが、私はWWWに言葉を投げているのではなく、Twitterをただ鏡だと思って、鏡に向かってキャッチボールをしているつもりだったからだ。読者がいることを想定していないし、ただの独り言である。「嫌ならミュートなりブロックなりしてくれ、私は好き勝手つぶやく」という意思すらなかったと思う。だからこう、たかが相互 になっているだけで、私の発言にカチンと来て引用RTで……いや、どうでもいい愚痴は止めておこう。ともかく、自分あてに話しているから、死というネガティブな内容が含まれていることでも、書けたのだ。

 私がTwitterを始めた頃は、基本的に自己完結していたので「一体何を話せばいいのか。話すことなくない?」「他人の生活上のぼやきなどを見て何が面白いのか。意味が分からん」と思っていた。なんならツイ廃だった時も、本質的な意味では、Twitterの中の人たちにリアルの知り合い以上に親愛の情を抱いていたとは言い難くて、気が弱くなると猜疑心や劣等感に襲われることも少なくなかった。

 それなのに、SNSでそのような自己開示を平気でできるようになってしまったのは、どういう内側の変化があってのことだったんだろうか。匿名だから、どうでもいいことを好き勝手書いてもよいということ自体は、開始当初でも分かっていたことだったはずなのに。ただの慣性の法則なんだろうか。少し自己開示すると、それが当たり前になる、というだけの。

 そうそう、作家が自分をさらけ出すエッセイを書く是非についても思うのよね。TwitterなどのSNSにおける自己開示(に対する後ろめたさ)もそういう類だと思う。最初からエッセイ漫画を描いてきた人とか、物語とエッセイを並行して書いてきた人ならいいんだけど、ストーリーものだけ書いてきた人が、たとえば出産を機に育児エッセイ漫画、育児体験記とかかきだすと、ダメなんだよなあ、私は。出版社が「かいてみましょうよ」って言うのかもしれないけど、「あ、この人、逃げたんだ」ってどうしても思っちゃう。そのままエッセイしか描かなくなっちゃう人とか、自分のヒット作の続編や焼き直ししか描かない人とかいるじゃん? 私は! あなたの! 作品が読みたいんだ!! ってなる。

△ △ △

ジョジョスーツ、企画があったのは知っていたけど、クレイジー・ダイアモンドにちなんで形状記憶スーツっていうのは笑った。


サポートいただけたら飛んで喜びます。本を買ったり講習に参加したりするのに使わせて頂きます。