自責と自虐の話
少し前に、他責と自責の話をしたのだが、その時「自責は自分を含めた他者をコントロールできると思っているから、実は傲慢なのではないか」という(自分にとっては)新しい考え方に触れた。
それについてまだ完全に消化できていない段階で、更に未知の世界に入っていくのもどうかと思うが、今日は自責と自虐の関係について書きながら思索してみようと思う。考えながら書くので多分長文になるし、ちゃんと整理されない状態になると思うが、お時間があればお付き合いいただきたい。
あ、あと全然関係ないけど、横書きのWEB記事の場合、どうやら行頭一字下げするととても見づらいようなので、この記事からはそれをやめようと思う。過去記事もできたら直したい。時間ができたらだけど。
世間の人の中には、自責傾向の高い人に対し、ほとんどアレルギーと同等に毛嫌いする人がいる。そういう人たちは大抵、「自虐に逃げる」と相手を責める。
私はこれがずっと理解できなくて、「え?他の人に責をなすりつけるより自分のものとして受け止めて反省した方がよくない?なんでそれが自虐になるの?」「自分が悪いと思ったら謝るべきじゃないの?開き直った方がいいの?」と思っていたのである。
でもまあ色々我が身を振りかえるようなことがあって、自分の中で解決できていないこの二つの関係性について改めて考えた方がいいんだろうなと思った訳です。それでぺいぺいってパソコンさんに「自責 自虐」とか打ってみたところ、こんなん出ました。
自責は精神的リストカット
https://otakei.otakuma.net/archives/2017082701.html
ひい!物理的に傷をつけていなくても、自分の心を虐めてたら自傷行為なんですって!心当たりがある!!
「自分が悪い」という結論にした方が楽、というのは確かにそうかもしれない。自分を責めていた方が生きている実感を得られるというのも。幼少期からそういう風に悩んできたから、何も葛藤がない状態―それを人は幸せというのだろうが―は不安なのである。
我ながら不憫な子だな。
自虐を嫌う人たちは、相手がしおらしくしているとこれ以上キツいアドバイスができないとか、同情を請うようなやり方が気に食わないとか思っているのかなと想像していたが、そういう人たちは「でもでもだってはやめろ」という言葉をいつもセットで言うなあと思っていた(私に対してに限らず、ツイッター上でもよく見られる光景)。彼らにとっては、自責的な考え方をする人はレバ即自虐らしい。
一方、「自責は自分の責任は責任として受け止めた上で、前向きに対策を考えること」「自虐はただ自分が悪いと考え、落ち込んで自分を痛めつけること」と、自責と自虐を分ける考え方の人もいる。この説の方が当然自虐の範囲は狭い。じゃあこの説を主張している人達の自責と自虐の境目はなんなのかと目を凝らすと、なんともはっきりしない。「必要以上に自分の責任だと思わない」とか書いてあるのだけれど、いや、その「必要以上」の塩梅が分からないから困っているのだし、自分では自覚していなくても自虐に陥ってしまう人が少なくないのでは?と思う。
そしてゼロか100か思考気味の私は、「じゃあ他責に振れと?」とか思う訳です。でもそんなの無理だよ。前のnoteでも述べたように、たとえその人が100%悪くても、誰かのせいにするのは非常に気分が悪いし、相手にそう言われただけで自責の念にかられるし。「はい、それは相手の責任なんだから」と問題を片付けるのはきっと楽なのだと思うが、それはそれで思考停止なのだと思う。
自虐でも自責でも他責でもない地平線があるのかもしれない。「お前の中ではそうなんだろうな、お前の中ではな」である。現象をただ現象だと受け止め、そのことについて心を動かさない。相手とすれ違っても、心が通じたように思っても、それはそれ、これはこれ。自分の周囲や自分に何かが起こっても、自分は自分で歩いていく。自分の中に湧き上がった感情に長く執着せず、自分の中の川に早く流してしまう。
うーん、そんなことできるかなあ。
実のところ、自分の感情に浸るのは心地良いんだと思う。良い感情も悪い感情も。そして、自分の今が正しい、最善の道を進めていると思うのは結構骨の折れることなんだろう。他責でも自責でもいいんだけど、自分の理想と現状の差を埋めるのに何かの理由が必要で、理由をつけて早く了解してしまいたくて、どうしようもないことをそのまま受け止められないし、ありのままの自分をこれでいいんだって認められない。
だって私は生きているから。まだ道の途上だから。
私はきっと生きている限り、自分のあるべき姿を作り続けてしまうと思う。自責なのか自虐なのか分からないけれど、これはもう思考の癖だからなかなか直らないと思う。この思考の癖を捨てられない自分はダメだ!という自虐に陥るのも滑稽だ。
でも、できたら少し軌道修正したいなと思う。引用のURLでは他者に相談することが一つの解決の道だとあった。自責傾向の強い人間は私も含めて誰かに相談することがとても苦手だ。普通の相談すらあんまり気軽に話せないし、心の芯に根っこがあるようなものは尚更だ。自分は情けない存在なのに、自分の中の一番弱いところを他者に晒すの?無理無理、みたいな。
私は数か月前から「自分が普段しないことをする」キャンペーンをしていたのだけれど、その過程で色々な人に相談するようにした。私は既に、無意識に自分の根っこの問題に辿り着いていたらしい。ほら、自責にもいいことあるじゃん(強引)。半公的機関の相談窓口に何度も電話したなあ。それは私にとってとても恥ずかしく恐ろしいことだったし、相談が不調に終わることもあったけれど、少し自分の枠を外せたかもしれないなと思う。
また、今回の記事を書くにあたって読んだWEB日記に、「相手の言動を自分の価値判断を加えずにそのまま受け取る」というものもあった。自責傾向にある人は「あーどうせ僕のことダメだって思って言ってるんでしょ」「僕に嫌気が差してきてるんでしょ」という前提で相手の言動を受け取ってしまいがちだけれど、そのフィルターを外せば、ただフラットに、むしろ前向きに仕事上のアドバイスをしていただけ、なんてこともあるのだと。
ああ!ほんとですね!仕事をしていたときの自分に聞かせてやりたい!
相談することもそのまま受け取ることも、私でなくてもきっとタフなことに違いない。でもそれが他者と関わって生きる人間に生まれてしまった私の、あなたの生の醍醐味であり、避けては通れない道なのだろうと思う。
いやしくも文筆を目指すのであれば、私は人生のそういう側面を体験し、見つめる技術も身に付けるべきであろう。相手の言動パターンを無限に考え出す一人ブレスト(無駄な深読みとも言う…一応無駄じゃないんだよ、前職には必要な能力だったし、ストーリーを考えるのにもね!)が出来るんだからそっちも出来るでしょ!
と、予想通りグダグダな展開になったところでこの話はおしまい。もう少し時間をおいて、他責でも自責でもない地平線を垣間見ることができたときに、この問題は改めて振り返ってみたいと思う。
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