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あきらめたこと、あきらめきれないこと

 つぶやきで予告していたように、ここ一年半ほどの私の苦闘について書こうと思う。


 noteの記事には、ためになる情報やレシピ、読者をくすりと笑わせる小噺など、陽のものが多いから、おそらく憂鬱なことばかりになりそうな文章を載せないほうがいいとは思うけれど、自分がこれまでどこをどう歩んできたのか振り返るべき時期なのかなと思うので、書いてみることにする。ネットの反対側にいる、直接面識のない人の、個人的な話に興味のない人や、あまりネガティブなことを読みたくない人は、悪いこと言わないからここで回れ右をしてほしい。


 自分の記録にもなるのだから、なるべく具体的に書きたいのだけれど、あまり自己卑下にならないように、かつ正確に述べていくにはどうしても曖昧にならざるを得ない点がある。無用な不安や憶測を生まないように、一応読者に断っておくと、私をフォローしてくれている人の中には、この文章で私が言及している人はいないはずなので安心(?)して欲しい。まあ大体私の内面のことしか書かないから大丈夫だと思うけど。

 チッ、前置きすら冗長になってしまった。以降は本題である。


◇ ◇ ◇

 去年一年間は泥の中にいるようだった。いや、実際には、三年くらい前からずっと泥水の中にいて、その延長が去年だった。

 一昨年の年末(つまり去年の年始)、私はありていに言えば人生のどん底にいた。なぜどん底だったかはもうよく分からない。様々な良くないことが重なっていたし、あの状態がなんだったのか、今振り返って何か言葉で説明しようとしても変な色が付くだけだ。
 大切だったはずの誰かとの、おそらく永遠の訣別もあった。そのダメージのせいで調子が狂って、長い友人に呆れられてもいた。耽溺していたインターネットの世界にはもううんざりだったが、その耽溺ゆえに放置し続けてきたリアルの世界は荒廃しきっていた。そして、遅々として進まない公募用の作品が手元に残った。

 当時の私(のアカウント)を見ていた人は、「確かに落ち込んでいた気がするけど、どん底でもないんじゃない?」と思う人が多いはずだ。私には四桁のフォロワーがいたし、私を嫌ったり呆れたりする人以上に、私を応援したり面白がったりしてくれる人がいた。でも、世の中だいたいそうなのだけれど、応援してくれる人は静かなのだ。彼らはどうしても言わずにおれないという時だけ、話しかけてくれる優しい人達なのだ。だから、私の目にはひどい方の何か、もう取り返せない人間関係ばかりが映って、応援してくれる人がいることは信じられなかった。そもそも厭世観が強くて、本当に人でなしなのだけれど、見知らぬ人に応援されたところで現実が変わるわけでもなしという気持ちも強かった。SNSアカウントは100%私ではないが、私っぽい窓口をもう作っておきたくなかった。Twitterから完全に離れる決心はついていなかったが、取り敢えず毒薬から距離を置かなければと思った。
 ……そう、もう生きていても甲斐がないと思っていたのに毒を遠ざけたのは、無意識に生き続けなければならないと思っていたからだ。少なくとも、子供に母の自死を経験させてはならないと思った。noteも私の窓口なのだからアカウントを消したって良かったし、少なくとも投稿を休めばよかったのにしなかったのは、創作の方の窓口は死なせちゃダメだと、生き続けようと無意識に思ったということだ。
 生きる、死ぬと言っても、おそらく本気で命を断とうとまでは思っていなかったのだが、なんだろうな、魑魅魍魎の類になる最後の一線は超えてはダメだと思っていたんだと思う。


 私は手始めに、自分の絶望をなんとかする必要があった。つながりにくいことで有名な相談窓口に何度も電話したり、コロナでもやっているお寺の相談窓口に電話したり、noteでカウンセリングをするという人達のお試しセッションを頼んだりした。最後には、普段なかなか連絡を取らないが、それなりに信頼している古い友人に色々とぼかして相談しさえした。

 でも、人に話すのでは苦しさは消えなかった。むしろ、話せば話すほど、つらかったこと、したかったのに出来なかったこと、自分の能力不足、幼稚さなどが鮮明になって苦しかったし、アドバイスは心に響かなかった。電話の向こうの誰かが親身になってくれていることだけは分かった。しかし、当時受け取った言葉で、今も覚えているものはない。「悩みは言語化したら八割解決したも同然」という言葉がある。相談した人の中にも、あなたは言語化できてるから大丈夫と言った人があったが、言語化できるということは苦しさをはっきり認識できるということであり、全然大丈夫じゃなかった。

 ちなみにこの後、私は懲りもせず臨床心理士に相談してみようともするのだけれど、上記とほぼ同じ理由で相談できなくなった。

 私は自分の絶望はどうにもならないとあきらめた。
 とりあえず絶望の方は見ないようにしようと決めた。

 言語化できたって、私が苦しんでいる事実が変えられなければ何の意味もないし、事実の解釈を変えるのは欺瞞でしかない。苦しさを感じないようにするには、心に蓋をして、厳重に密閉して、辛いことを感じないようにするしかなかった。臭いものに蓋をするのも欺瞞かもしれないけれど、事態は変えられないことははっきりしていたし、(もし変えられそうな状況だったとしても)変えようとする気力も失っていた私には、もうそれしか手段は残っていなかったのである。いくらきつく封をしても、函の隙間から、しばしば毒の息が私を撫でた。私はその息に対して、私の全てに鉄の扉を下ろすこと―現実生活で生まれる感情を殺し、全体的な活動性も下げること―でなんとか抑え込んだ。

 ……そうやって意図的に抑え込んだのには、時が緩やかに私の思い出を溶かしていくのに任せるのは、あまりに哀しいから、というのもあったと思う。自分の選択で思い出に蓋をするのなら、まだ許せたというか。

 私の手元には書きかけの作品があった。訣別した人との関係性をひとことで説明するのは難しいのだけれど、私に小説を書く道を再び見出させてくれた人で、作品はその成果物のようなものだった(当時はまだ途中書きだったけれど)。
 これを書くとまた傷口がざっくり開くが、作品をちゃんと終わらせなければならないと思った。自宅で〈了〉と打つだけではダメで、出来はともかく、外に出して下読み人だけにでもいい、とにかく誰かに読んでもらう、つまり公募に出す必要があった。本当は訣別したその人に読んでもらうのが「終わり」だったのかもしれないが、そのことを考えるだけで動悸がひどくなって無理だった。大変すぎてあまり覚えていないのだけれど、心に蓋をしたままで書ききろうとしたと思う。当時の先生にお金を払って見てもらって推敲し、なんとか完成させて出版社に送った。四月になった。

続く(多分)。

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