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思想の断片日記 20211026

ぼろ雑巾のように疲れているし、エッセイにせよ日記にせよ、創作的に意味のない文章を書いてもと思うけれど、瀉血のように何かしら書き残す。

今年の夏は、同じ園に通っている人の家に何軒かお邪魔した。おやつタイムになると、大人用と子供用のおやつと飲み物を用意されることが多かった。
「コーヒーはブラック? ミルク入り?」というようなことを聞かれるとき、正直に「ミルク入りがいい」と言いにくいという自覚症状があった。

なんでさ? と自分でも思う。

相手がブラック派っぽかったから、相手に合わせた方が感じいい気がしたから? ミルクを入れるのはひと手間かかりそうで申し訳なかったから? 自分がもてなす側の時は、相手がどんな飲み物を好きそうか考えて、2、3種類用意しておき、相手がどれを選んでも何とも思わない。相手が普通の配慮をしてくれただけだというのは頭ではわかるのに、どうにも遠慮があるのだ。

これは相手じゃなく、自分の中の問題だ。そもそも、私はどちらかというとミルク入りを好むというだけで、どっちがいいとはっきり意思をもっていないらしい。その主体性のなさが一番だめな気がする。自分がミルク入りを好む人であると自ら言い、それを相手に認識されることが嘘っぽく感じる。でも、なんでもいい自分でいることも一種の甘えのように思う。「飲み物はなんでもいいよ」ばかりでは、相手は困るだろう。こういう付き合いに慣れれば消えていく感情なのだろうか。しかし、慣れる前に園を卒業して、付き合いが減りそうである。
その主体性のなさは、自分の主体性の問題というより、他人に極端に期待していないせいかもしれないとも思う。他人が私のために何か配慮してくれると思えないから「なんでもいいから善きに計らってくれ」という発想になるのではないか。こういう内省は、掘り下げていくと内省のための内省になって、本当から遠ざかるから、ほどほどにしておく。ただ、私が原因で子供も「ミルク入りがいい!」と言えない子にしないようにはしなきゃと思う。

なお、そういう付き合いが増えた結果、自分の親が私の友人に対して示してきた態度が、結構ヤバかったなあということに今さら気付いて怖い思いをした。



夏に、某有名塾の仕事をしたのだけれど、その秋バージョンがはじまる。

その仕事は、塾講師陣同席の打ち合わせ出席も求められる、刺激的で興味深い仕事で、言葉の使い方について厳粛な気持ちにさえなった。採用されてよかったし、やってみて良かったなと思うのだけれど、夏の打ち合わせでは、新米の怖いもの知らずで、迷惑ではないかと思うほど質問をした。その席にはいかにもベテランに見える他のワーカーも同席していて、私のように闇雲な質問ではなく、ポイントをおさえた質問をしていた。少なくとも私にはそう見えた。

私があんなに質問したのは言葉に敏感になっているからだ、と当時自らを慰めてはみたけれど、言葉に敏感であることは必ずしもいいことではなく、ただバカなだけなのではということも思った。
他の人は、ベテランだから質問しなかったのではなく、普通そんなことを疑問には思わないというだけではないか。スルーすべきことを、私はずっと気にかかって質問しちゃうんじゃないか。ただ敏感なだけでなく、正しく考えて自力で答えを導けなくてはいけなくて、いちいち講師陣に確認取るなんてアホの所業では、と……。
質問をしなかったら、きっと仕事の時どう判断したらいいか分からずに迷っただろうから、私にとってはいいことだったし、会社としても、間違った仕事をされるよりは質問して納得してもらった方がいいとは思うんだけど、モヤモヤした。

今回の打ち合わせでの私の質問量がどうなるか、自分で自分が見ものだなと思う。慣れれば疑問点は減るのか、それともやっぱり何か言いたくなっちゃうのか。


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