書きたいもの・書くということ
物書きを再開した頃、私は自分が何を書きたいかよく分からなかった。Webではウケそうなファンタジー系は素地がなさすぎて無理だし、ホラーやサスペンスも論外。純文学を志向はしていたけれど、純文学ってひとことで言っても幅が広いし、こういう話を書きたいというアイデアがポンポン湧いてくる方でもなかった。
ちょこちょこ小さなコンテストを開いているエブリスタに登録して、だいたい月二回、発表されるテーマに合わせてお話を考えた。苦しかった。そんなテーマ、考えてみたことがないというものが多かったし、テーマそのものも大衆的で好きになれないなんて偉そうなことを考えた。商業作家は「次はこんな感じの話、どうですか」とか言われるようになるのかな。それなら練習になるのか、いやそんなこともないでしょなどと考え、苦しみ苦しみ出したと思う。とはいえ、テーマがまるでない所から何かのお話を考えるのも当時の私には難しくて、無理にひねり出そうとしても、それはどこかで見たような、あるいはちょっと前に読んだ小説に強く影響されたようなもののように思えた。
自分がどういうものを書きたいか、あるいは今書いているものを、どう肉付けしていけばいいか考えるきっかけが欲しくて、小説指南書のようなものを沢山読んだ。そういうのは本来あまり読まない方がいいと言われるし、実際合う合わないは結構あると思う。指南書は、第一線では稼げない(元)小説家が書くようなイメージが強いせいで、そう言われることが多いんだろうか。しかし昨今では森博嗣や村上春樹など、今も活躍している人がそういう本を出してくれている。いい時代だ。
そういう本からは、こう考えるとよい、これを大事にすべきというアイデアが沢山得られる。私は心が動かされるたびに、おおそうか、と目から鱗をこぼしながらメモを取る。車の運転でも楽器の練習でもそうだけれど、自分より上手な人にやり方やコツを聞いた方が絶対習得するのは早いはずだ。でも、それって本当に自分に合ったやり方なんだろうか。
ショートカットをするために指南書を読んだはずなのに、こういうのは自分が書いていく中で、考えて編み出していくべきものではないかと思ってしまう。そういう余裕がないからそういう選択をしたのだし、先人の知恵に頼るのはむしろ良いことのはずなのに。私はそんな風に、いつも進みは戻り、戻りは進みしてしまう。
今も、ポンポンアイデアが出てくる方ではない。小説投稿サイトの住人は皆多作で多頻度更新だ。それを眺めているだけで心が折れる。それでも、コンテストのテーマから着想した単語を組み合わせて、なんとなくそれっぽい話を作ることが出来るようにはなった。
だけど、「そういうの向いてないんじゃない」と人に言われた。そうだった、忘れてた!
かつて苦手だったことを、克服できている(ように見える)ことはいいことなんだろうか。それとも、私の良さが何らか削がれてしまっていることになっているのではないか。よく分からない。文章を書くことは筋トレと同じだから、たとえば創作なら創作、エッセイならエッセイと、さらに創作ならどういうジャンルかを絞った上で、できたら毎日、とにかく文章を書くことが上達には欠かせないと思う。もちろんただ書くだけではなくて、どの筋力をつけたいか、ちゃんとデザインしながら書かないといけない。
コンテストのテーマは、アイデア出しが弱い私を補強してくれるものにいつの間にかなっていたけれど、本当にそれでいいんだろうか、ということを改めて考える段階にきているのかもしれないと思う。
最近、自分が好んで読むようなもののうち、読んでいると自分も書きたくなるものに私は強く惹かれるのだなということが分かってきた。それは前からそうだったのかもしれないけれど、ここにきてより好みがはっきりしてきたと思う。自分にとってすごい本を読んだ時に、湧き上がる何かにちゃんと名前を付けられるようになったということなんだろう。そういう作品を書きたいと思う。書けるかどうかは別にして。
私は川上弘美さんが特に好きだ。あくまで純文学の体裁をとりながらも、ふっと不思議な世界に入っていくような作品が多い。そしてそういう作品の作り方は、最近の純文学の王道でもあるらしい。主人公や登場人物の考え方は実在の人間をベースとしつつも、状況を少し変えた中に放り込んで反応を見るといったような。(それはどのジャンルでもそうだろうとは思うけれど。例えばミステリーも、現実には起こり得ないような巧妙なトリックの中に主人公を放り込んで動かすと言えなくもない)
実際に私が手を動かして書いてみると、どうしても少し変な人や変な状況を入れたくなるなと思う。例えば直木賞の選考対象になるような、現実の男女の苦難を書くのは私には難しいように思われる。書こうと思えば書けるのかもしれないが、私はそういう作品を読んでいると途中で退屈してしまいがちだし、「これを退屈せずに書けるのってすごい」という考えがまず先に立つ。あくまでそこでは読者で、私は物語の外側にいる感じがする。
といって、すこしふしぎな作品が私に合っているかというと良く分からない。確かにすこしふしぎ要素が入ると、物語の自由度が増すので書きやすくなる。心身の調子が悪いというのを、本当にねじが取れてしまって体が崩れてしまう描写にした方が面白い(と思う)。
どうも、書くことについて、私は何か自分がこれまで出来なかったことを達成する、常に成長していくための手段みたいに思っているようなところがあるみたいだ。純粋に書くことを楽しんではいけない、楽しいというのは「楽」なんだから、私のレベルで楽に書けるようなことは、もう他の誰かが書いていること、凡庸なことなのではないかと思ってしまう。そして、凡庸なことを書いたんでは、価値がないと思う。価値とは、貨幣に交換できるだけの価値ということで、物語が貨幣をもたらしてくれることで、架空の世界が私自身を、私の世界を実際的に変えてくれることを期待している。
……のだろうか。全然分からない。
何かの為に、誰かの為に書くのは不純ではないかと思う。そう思うと、その対象に対する期待がどうしても付きまとってしまう。そして、得られるかわからない期待にすがるのはしんどい。じゃあ私だけの魂の叫びみたいなものはあるのか、それを書くことに込めたいのかと言われると、そうでもないみたいだ。創作なんて所詮オナニーなんだけれど、「叫びを書いてるんだ!」と明確に自覚して書くのはオナニー臭が強くて耐え難い。それなのに、「次はこういうの書けるかな」としじゅう考えている。お金にはならないのに。
昨日は途中まで書いて、もう少し書けることがあると思って継ぎ足ししてみたけれど、このままだと延々と書き続けられてしまうと思うし、多分答えはすぐには出ないんだと思う。中途半端だと思うけれど、このあたりで筆を置こうと思う。独白にお付き合いいただきありがとうございました。
※note30日チャレンジ5日目 累計 9,486文字 (オフライン含め11,320文字)
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