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Tさんとのこと

 あ、この人と絶対恋に落ちる。

 大学三年、自分が入るゼミが決まり、同じゼミの四年生がやっている教室に全員で顔合わせしに行った時のことだ。Tさんは長方形のロの字型テーブルの一番奥、議事長のような位置に座っていた。サラサラの真っすぐな髪、いかにも切れ者そうな光が宿る、二重の大きな裸眼の瞳。癖のない直線の眉も少し薄情そうな薄い唇も、全てがドンピシャにタイプだった。

 とはいえ、三年、四年で合同ゼミをやることは滅多になかった。ゼミの教室は同じで、四年生が終わったすぐ後に三年生が入れ違いに入るから、そこで少し顔を合わせることはできる。私は毎週彼とすれ違うのが密かな楽しみだった。焦らずとも、この先合同飲み会もゼミ合宿もあるのだからと思っていた。

 しかし、Tさんと近付くチャンスは当初の目論見より早く訪れた。私は当時大学近くのオンボロ寮に住んでいたのだが、それを聞きつけたゼミメンバーがうちで飲もうという話になったのだ。確かメンバーは殆ど同輩だけだったのに、なぜかTさんも来ることになった。それまでも仲間内の家飲みで料理を作ることがあったが、特に気合いが入ったのは言うまでもない。

 一度見た四年生のゼミでも、彼は弁舌爽やかにゼミメンバーと議論をしていたから本当に憧れだったし、たとえ何も進展がなくても、一緒に飲めるというだけで気持ちは舞い上がるようだった。複数人でとはいえ彼が一緒に飲むことに同意したということは、私のことを憎からず思っているだろうという手ごたえが確かにあった。宴の終盤、私たちは目配せだけでやりとりした後、うまく同輩たちを先に帰らせることに成功した。

 でも、そこまで行ったのにその日私たちはセックスはしなかった。飲みながらじりじりと不毛な攻防戦をした後、せいぜいキスかペッティング止まり。天板が割れかけてギイギイ鳴るちゃちなシングルベッドの中で添い寝しただけだったはずだ。

 これだけ見れば、まだ始まったばかりだと思うだろう。私もそう思う。でも、当時の私は全然幸せではなくて、「ああもうダメだ」と思っていたのだ。「だってあの憧れのTさんだよ? どうせ私のことを本気で好きではないでしょう」と。なので、次に彼がうちに来たときも、最後まではしなかった。彼は「口でしてくれたらセックスしてあげる」というようなことを言ったのだけれど、私は口を付けられなかったのだ。本心では彼のことが好きで、そうなりたいと思っていたにも関わらず。「大体セックスしてあげるってなんだよ」という冷静な声が、頭の片隅で警告していたし。

 私が彼とのことで覚えているのは、寮のすぐ裏にある大学所有のラグビー場で散歩したことだ。確か最初に彼が泊まった日のすぐ後のことだったと思う。練習日ではないのか、ラグビー部員が居ないだだっ広い草原で私は泣いていて、彼に背を向けたまま、夕日に染められた芝生をずんずん歩いた。もう終わりだと思っていたから。そうまで悲観的だったのは、Tさんがメールに返信しないとかなんとか、つれない態度でも取ったからだろう。また、明確に付き合うという話になる前に一線を越えかけたことからかもしれない。そう、私はとても生真面目で潔癖な学生だった。

 その後、なんだかんだあってやっぱりTさんとはうまくいかずに、すぐに別れることになった。そもそも付き合っているかどうか怪しいくらいの関係だったけど。私は直後、ストレスのせいなのか、自分で部屋に塗った(寮はオンボロすぎて、各自勝手に加工してもいいことになっていた。というか加工しないとほぼ独房だったのである)ペンキの薬剤かぶれのせいかによる酷いニキビに悩まされ、少し遠い大学病院にまで通う羽目になった。その寮は、私が卒業したすぐ後に老朽化を理由に壊された。


 Tさんは別れ話の時、ラグビー場で会ったのは、前向きな話をするためだったのだ、と言ったのだ。


 私はそれを聞いて「だったらその時にそう言ってよ!」と思ったのだけれど(Tさんはその時、およそそうとは取れない曖昧な態度しか示してくれなかった)、それは私が受信拒否をしていたのかもしれないなと今もたまに思い出す。

 自分が思い描いていた通りの人に愛されるはずなんてないと。

 だから、最初からTさんの方なんて見ずに、自ら描いた悲観的なシナリオにTさんと自分を引きずりこんだんじゃないかと。

 まあ、Tさんについては、後にかなりクズだということが判明したので、むしろ一線を越えなくて良かったねって感じだったんだけど、彼との短い直接的交流とゼミ全体を巻き込んだごたごたは私を心底疲弊させ、「もうこれからは、一番好きな人、もうどうしようもなく惹かれる人を狙うのはやめよう」と心に固く誓ったのだった。

 ちなみにその誓いはX年後破られることになるのだけれど、それはまた別のお話。

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