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なんのために書くか

「売れたい 書きたい……」の記事と多分内容が被るのだけれど、整理の為に書く。

先日、noteを日記のように書いていた人の記事を読んだ。スキやダッシュボードの結果にはこだわっていなかったのだけれど、一つの記事が注目を浴びて、一気にフォロワーが増え、その眩しさに目を細めながらもやっぱり自分のために日記を書き続けた、というような趣旨の記事だった。

私も、何か書こうとするとき、基本的には自分の書きたい、整理したいという欲に従って書いている。はずなのだ。

なのに、いざネットにアップすると、この記事の反応は良かったなとか、こういうことを書くとコメントをもらえるのだなとか、あの人は、この人は読んでくれたかなと考えてしまう。自分のために書いているって純粋に思えなくなる。

純粋にそう思えないのは、創作者としてあるべき姿じゃないんじゃないか。その物思いに沈んで筆が止まるのである。書くためには全く無駄な物思いだと思う。

私は「あるべき」に都度縛られているし、自分で選んで取った道なり手段なりを、外部にヨシと認めてもらわないと不安になるらしい。その理由は親が過干渉だったからとか、元々臆病だったからとか色々理由があるだろうけれど、それは今はおくとして。

Webでの創作やつぶやきなどの発信が苦手なのは、反応が見えてしまうこと。あるいは、他のクリエイターさんのもらっている反応と自分を比較してしまうこと。知人には「あんまり気にしない方がいいよ、体が持たないよ」と言われる。これでも、自分ではそんなに気にしていないつもりなのだけど、周りからはそうは見えていないみたいで、自分で自分が全然分からない。自分で自分が分からない人が、作家になんてなれるの? とまた落ち込む。

実際、他者の目がどう私を見ているかということよりも、外から私を見ているもう一人の私の目に怯えている。他者が実際どう思うかに想いを馳せるというよりは、「本当はこう思ってるんじゃないか」と、自分が想像するネガティブな他者の目を気にしている。そもそも、他者にそこまで注目されているわけでもないだろうに。

創作をするのに、周りのことは気にしないで自分の好きを追求していますと言えるのは、清々しくてカッコいいと思う。それがまさに創作者という感じがするし、そうありたい。

でも、自分が人にどう見られているか気になったり、特定のあの人に自分の姿を晒すのは嫌だとか恥ずかしいとか、私の物語を誰かに必要とされたいと願う自分も自分なのだ。それが嫌だという気持ちを持ってしまうことは仕方がないとして。そう考えても、すぐにフラットにはならなくて、そういう自分の見ている世界の有り様に、果たして需要はあるのかという方向に考えてしまうのが良くないのだけれど、周りを気にするのはただの性質であって、それに良し悪しを付けない方がいいんじゃないか。

人に「気にしないで」って言われるたび、ダメ出しされている訳ではないのだろうに「気にしている自分はダメでは」とか思っちゃうのは止められないんだろうけれど。

どうしたらもっと図太くなれるのかな。頭をどこかにぶつけたらいいのかな。一発逆転を狙ってそういう極端なことを考えてしまう。



それとは別に、読者を想定して書くか書かないかという話がある。

コラムやなろう系小説だと、ターゲット層を意識した内容にしたり、今の時流に合ったキャラクターやストーリー展開にすることが多いんだろうと思う。応募のテーマが決まっている公募も、広義ではそれに属するだろう。読んでくれる人がいなければその文章はネットや自分のパソコン上を漂うむなしい文字列だ。だけど、読者を想定して自分を矯めることも私には難しいようだ。

一方で、個人的にこの人には読んで欲しい(あるいはこの人には自分の考えをあまり見られたくない)という思いには左右されやすい。実際、その人が読むかどうか分からないのに、一人でくよくよしている。不毛だ。

私がもしデビューしたら、友人知人はみんな「5ちゃんとか見ちゃうでしょ」と言うのだけど、いやとんでもない。有象無象がわいのわいの言うのは正直どうでもいい。気になるのは顔が思い浮かぶあの人、この人だけだ。

消しゴムにその人の名前を書いて、誰にも見られず全部使いきったら恋は成就する、というおまじないを熱心にやっていた頃の自分と、今の自分はあまり変わらない。本当は「読んで感想を聞かせて」とその人に言いたい。でもその窓口はもう閉じていたり、言い出しにくかったりする。だから私はnoteという消しゴムに精一杯文字を書く。そんな感じ。


note30日チャレンジ26日目 累計 45,564文字(オフライン含め47,977文字)

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