2002年ころに早川孝太郎についてブログに書いた文章を再UPしてみました
「地鶏の姿はこうして一つ一つ消えていった。よくよく滅びさる時世であったのだ」
早川孝太郎は明治22(1889)年12月、愛知県長篠村で、農家の長男として生まれました。
尋常高等小学校を卒業後、画家になるために上京し、日本画家の松岡映丘に師事しました。この時より松岡映丘の兄にあたる民俗学の開祖・柳田国男との交流が始まり、孝太郎は民俗学の研究者として活動するようになります。
わが国初の民俗学の専門誌となる雑誌「民俗」にも創刊当時よりかかわり、その第1号には出身地の山村で自身が体験した鶏のいる生活をまとめた「鳥の話」を寄稿しました。これは、日本でも産業革命が起こり、農山村の生活様式が劇的に変化した時代に、人々の生活と動物観がどのように変化していったのかを知る上で一級の資料です。この話は後年、農山村の生活と動物とを描いた「猪・鹿・狸」に挿入されて単行本化しました。
その一部を抜粋して以下に紹介します。私の大好きな文章です。
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・・・(中略)・・・鶏はいてもいわゆる放し飼いで、どこの家にも1つがいあるいは3羽ぐらい、土間の隅や表の端などに遊んでいたものである。今日のように、卵を買う費用を他の途で稼ぎ出せば、糞ばかりして汚い鶏などはいらぬ、というたぐいの理屈はまだ通らなかった。
・・・(中略)・・・家がある以上、付属物のように、生活上なくてはかなわぬほどの地位を占めていた鶏で、飼っているというよりも、「いた」というほうがはるかに適切であった。私の家などでおく鶏の品種はおのずと決まっていた。「みのひき」というて、腰のところに蓑をつけたような長い羽毛をたらしている。黄金色のかった、からだの細い、鶏冠の美しい鶏であった。
・・・(中略)・・・すぐ隣の家には、だいだい小軍鶏というのがいた。・・・(中略)・・・谷ひとつ越した下の屋敷には黒の矮鶏がいた。・・・(中略)・・・こうして、鶏といえば美しいもの、声のよいものと思い込んでいた。そうして子供心に、我が家の鶏が一番優れていると信じていた。・・・(中略)・・・そのころは、まだ村に時計が普及していなかったので、鶏がなくては一日もおれなかった。昨日鶏を狐に奪られたために、時刻を間違えて、ひどいめにあったなどの話もあった。・・・(中略)・・・鶏はまためでたいものともいうた。・・・(中略)・・・鶏は神様のお使い姫と聞いていたが、それを如実に知る機会もまだ残されてあった。
・・・(中略)・・・鶏に対することばや態度も、 まさに変わろうとしていた時代であった。いろいろの点で家とは離れがたいものになっている一方、眺めるものであった鶏が、近頃は卵本位の汚い鶏に変わったそもそもの初めは、村では黒の矮鶏を飼っていた家であった。からだ全体がぶくぶくと変に太って、薄汚い灰色をした、そのうえ、脚にまで毛が生えているコウチンという鶏で、はじめて見た目には鶏らしく見えなかった。・・・(中略)・・・あんな鶏の卵は飲むのもきたならしいなどと、子供同士でも語り合ったが、当時は少しくらい腹痛があっても鶏卵一つも飲んですましておくという状態であった。
・・・(中略)・・・地鶏と洋鶏の優劣論が、われわれ少年の耳へはいったのもそのころで、子供同士学校の行き返りによく論じ合ったものである。・・・(中略)・・・コウチンの卵などは、いかに大きくてもさらに効目を感じないが、そこは地鶏の卵で、三、四日も続けて用いると、こう座っておっても、おのずと、掌のうちに脂肪がにじんでくると語っていた。・・・(中略)・・・こうした霊薬以上の賛美を受けたのも、実は鶏卵を薬餌に用いて日が浅かったからで、いわばもの珍しさからであった。
・・・(中略)・・・地鶏の姿はこうして一つ一つ消えていった。よくよく滅びさる時世であったのだ。村で最後まで地鶏を保存していた私の家でも、いつのまにか、アンダラという黒鳥に変わっていた。鶏を飼う以上、年間にいくつというほどしか卵を産まぬ地鶏などはばかげているというように、村のひとびとの思考にも大きな変化が行なわれていた。卵買いという職業が、新たに登場したのも、じつはそのころであったように思われる。家が無人で鶏の世話も容易でないからと、いったんはなくしても見たが、流し元の残り物 や、こぼれた穀物がもったいないという老人の説を容れて、ふたたび二羽三羽ぐらいおくことにした。
・・・(中略)・・・鶏の巣が厩の天井から、納屋 や雪隠のわきへ移されたのも、当然の推移であった。卵を得る以外、他に何の期待も必要も無くなれば、声の良し悪しや姿格好などは問題でなかった。たくさんに餌を食べて、一個でも多く卵を産むように、お尻がまるまる太っているほど、要求にかなっていた。きたないことは先刻承知であって、それには、なるべく目 立たないところが、似つかわしかった。
・・・(中略)・・・鶏の姿が友禅やメリンスの花模様から、実用本位の毛糸細工に代ってから、村の人は多く朝寝になったという。時代の変遷によるのは言うまでもないが、あの声と羽毛の美しい地鶏がいなくなってから、村の生活は美しさの点で、以前にくらべてはるかに劣ったように思われる。
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どうですか、この臨場感。単なる学術論文の域を出た描写力と適度なユーモア、読む者を引きずり込む世界観。物語は主観的でありつつも、研究者としてのシ ビアな分析が常に息衝いています。その流麗な文章は文学性が高く、出版時、芥川龍之介・島崎藤村らの文人から激賞されたのも頷けます。
また、もともとは画家を志していたこともあり、各章に挿入される動物や農具、風景の挿絵も早川自ら手がけています。その味わいのある描写も早川孝太郎の魅力のひとつになっています。
「鳥の話」後も出身地のみならず全国各地の調査・研究を精力的に続け、民俗学の黎明期を牽引し続けた一人でした。自身の郷里の祭りを克明に、かつ動的に記した大著「花祭」は絶賛をもって迎えられ、早川は名声を確固たるものにしました。
昭和に入ってからは九州帝大研究室で研究を続け、農村の経済学や民俗学の発展に貢献しました。昭和31年12月、東京で病没しています。
主な著書 に「三州横山話」「猪・鹿・狸」「花祭」「大蔵永常」などがありますが、残念ながら、現在書店で入手できる本はありません。古書店では上記の単行本のほか、未来社による「早川孝太郎全集(全11巻)」を手にとることができます。
民俗学というと柳田国男、宮本常一(先述の全集の編集者です)、南方熊楠などが著名ですが、人と動物の歴史を知る上で、非常に重要な研究者の一人であろうと思います。動物園関係者にも、もっと知っていただきたいです。