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「あの動画」から動物園について考えてみた(試論)

枝にとまるカワセミが画面下(におそらくある水面)に飛び降り、魚をくわえて戻ってくる。すると、同じ枝にとまっていたメジロがその魚を奪い取り、飲み込んで食べてしまう――

2024年3月初頭にSNSに出回った、非常にインパクトのあるショート動画です。

これが話題になりました。そして、物議を醸しました。CGを使ったフェイク動画ではないのか?捕まえて閉じ込めた個体ではないのか?等々の「批判」が主でした。

で、私が思ったのは、「もしもこの動画が動物園で撮られたものだったら、世間の反応は全く違っていたのではないか?」ということです。

動物園の鳥も、閉じ込められた個体です。

でも少なくとも、ここまでの批判は無かったろうと思われますし、「すごい!」「私も見たい!」との声も続いたかもしれません。何なら夕方のテレビの全国ニュースで取り上げられるくらいだったかもしれませんね。

この差って何でしょうね?

個人の方が工夫をして撮影した動画と、動物園の展示場で起こった出来事を入園者が撮影した動画では、どこが違うのでしょうか?

モヤモヤしたので、少し掘り下げてみることにしました。論点もとびとびで未完成な試論ですがお付き合いいただければ幸いです。

まず、どういった場合であれば、この動画は社会に暖かく受容されたのであろうかと考えてみました。

大きく分けるならば、必要な条件は Ⓐ特殊な撮影環境であることの事前告知 と、Ⓑ撮影環境の妥当性の説明 の2点ではないだろうかと思います。

Ⓐについては
・人工的に作り出した特殊な環境下での撮影であることを先に公表すること

であり、Ⓑについては
⓵各種法令を遵守している旨の告知
⓶動物福祉のガイドラインに反していないことの告知
③あえて野生動物を特殊な環境下に置くことに対する社会的なメリット(得られる知見や芸術性等)の明確化
④得られる社会的なメリットが動物に与えるストレスに釣り合っているかの検証

ではないでしょうか。

Ⓐについて動画に書き添えてあれば、「インチキ」や「フェイク」といった批判はまずなくなったであろうと思います。

Ⓑの⓵⓶については種の保存法や鳥獣保護法、動物愛護法などを順守し、動物福祉ガイドラインにも則って管理・撮影されたものだと仮定します(推定無罪の原則)。

とした場合、問題は③と④です。特殊な環境下で撮影されたことがわかっていても、この部分がクリアにならないと、「法的には問題ないとして、はたしてこんな撮影をしてもいいのか?」という疑問はずっと残り続けるからです。SNS上では憶測でも批判が起こります。

野生動物も自然環境も基本的には無主物であり、公共の財産ですから、勝手に手を加えてはいけません。その利用にはどうしても公益性が求められます。ですが、止まり木の設置や餌付けについては十分な法整備がされておらず、OK-NGの基準も人によって様々です。ここにも炎上の温床があります。

さて、この動画の場合、この動画作品を作った社会的なメリットは「特殊な環境下においては、カワセミが採った小魚をメジロが奪って食べる(飲み込む)ことは起こりうる」という科学的知見や驚き、知られざる生態の普及教育がひとつ。そして「動画としての美しさや違和感からくる驚きが映像作品として優れている」という芸術的な評価になると思います(他にもあるかもしれないけれど)。

その研究目的・活動成果で世の中を納得させられるかどうか、が次の問題になってきます。止まり木一つでも大論争になり得るので、実は深刻な問題です。

(※私個人としては、法を守っているのであればそれ以上批判されるべきものではないと思っています。個人的な「私は嫌い」で他者の創作物を叩くのは、SNSの良くない部分です)

ただ、研究研究と言っても、研究を行っていればすべてが許されるということでもありません。

例を挙げるなら、ラーメン屋さんもお寿司屋さんも、もっと美味しい商品をリーズナブルな価格で提供できないかと日々いろいろ「研究」しいています。でもそれはお寿司屋さんならお寿司屋さんのための研究であって、その業界の「外の」社会の役に立つ研究ではありません。そこに社会的な意味はないでしょう。

動物園も、動物を飼い続けるため「だけ」に行っている内部的な研究は社会的には意味がないことで、声高に語っても野生動物を飼育する根拠とはならないのです。
同様に、野鳥写真家さんが「もっとよい野鳥写真を撮るため」だけに行う試行錯誤は社会的に意味のある研究足り得ません。研究活動は万能な免罪符ではありません。

だいぶ話がそれたので動画のことに戻しますと、動画のUP主さんは事前に「こうこうこういう装置を使って、特殊な状況下ではメジロがカワセミから魚を奪って食べることもあることを実証しました」等というタイトルにすれば、論点は撮影の合法性や動物福祉の観点からの妥当性に絞られたと思われます。「わたしは純粋な野生動物ドキュメンタリーだと思って見ていたのに、ずるいぞ!」とはならなかったはずです。

さて、では動物園はどうかというと、ちっとも純粋な野生動物ドキュメンタリーではありません。
特に絶滅の危機に瀕しているわけではない動物を、美しさを保つという主目的のために展示することは普通に行われていますし、オペラントトレーニングや行動を誘発するさまざまな装置を使って、通常野生下で遭遇した際にはまず見ることができない動きを高頻度で見せることも普通です。

ペンギンが人の手から餌を食べている姿(!)やネコ科動物がラジコンを追いかけている(!!)のは受け入れられるのに、なぜ今回の動画は大騒ぎになったのでしょうか?

それは、フェイクの有無やその度合いやではなく、Ⓐ特殊な撮影環境であることの事前告知で言うと『動物園ではフェイクを見せているんですよ』、という「無言のお約束事」が見る側ー見せる側の間に予め成立しているからだと思われます。

そして、それらの活動は、ある程度名の通った動物園なら、Ⓑ撮影環境の妥当性の説明についても「当然動物の福祉にも十分に配慮して行われているはずである」という、一定の信頼関係が事前に確立していることも予想されます。

動物園の職員や入園者が「小鳥の展示室でこんな動画撮れました!」って公表するとおそらく大歓迎で受け入れられたであろうけど、「誰だか知らない人が私たちに無断で野鳥に勝手なことをして撮影している」という、推定有罪の論調が起こったのは、このあたりの差なのかなあ、というのが私の感想です。

ひるがえって、動物園のことを考えます。

どれだけランドスケープに配慮してリアリティーを追求した生態展示であっても、そこで見た野鳥をライフリストにカウントするバードウォッチャーはいないでしょう(人によっては野鳥であっても人為的な止まり木や餌付け個体、再放鳥個体についてもカウントしないこともあるらしいです)。

そして、そんなバードウォッチャーに「これは動物園で撮ったものだ」という説明なしに近くで取られた珍しい行動の写真を公表した場合、あとで「騙された」「インチキだ」「悪質だ」と感じる人も当然出てくるでしょう。公表した側に騙すつもりがなかったにせよ、です。

しかしいったん「動物園で撮りました」となったら、珍しい行動の写真は許容どころか歓迎されるでしょう。

動物園と入園者の間には、その事前合意が成立しているのです、たぶん。

つまるところ、動物園の展示は野生のフェイクなのです。どれだけ生息環境を正確に再現したとしても、野生を求める人にとっては本物に近いニセモノでしかないのです。

が、と同時に、動物園の展示は動物園のリアルでもあるのです。そこには生きている実物が確かに存在していて、野生とは違う種類のリアリティーが存在しています。飼育動物のクオリティーオブライフを引き上げるためや、普及脅威効果を高めるために、特定の行動の発現頻度を上げることもあります。

動物園は「自然ではない」ことをきちんと自認しなければいけません。動物園はどこまで行っても擬似体験でしかないのなら、施設として存在できないし、してはならないものだと思います。

展示としてはその動物の生態や行動、生息環境について見る人に誤解を与えないことはマストとして求められますが、それが自己目的化してはいけないでしょう。飼育しているからこそ見せられる、社会的に意味のある活動を、すでに形成されているコンセンサスの中からはみ出さないように留意しつつ思い切って行わなければ、ひたすら野生に似せただけの展示は淘汰されていくだろうと思います。


(以上、あの動画の件を元に動物園の展示の特異性について論考しました。あの動画そのものの論考ではないため、論点が違う!と感じられる方もいらっしゃるかと思いますがご容赦願います)

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