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【大人のファンタジー小説】マッチ売りの女の子(第四話)

Part4 陽の当たるリビング

 シュッとマッチを壁にこすると、炎のなかに見えてきたのは、白くて広いリビングでした。壁一面のガラス窓からはレースのカーテン越しに柔らかな光が差し込んでいます。天井も壁も、L字型のソファもセンターテーブルも、片隅においてあるグランドピアノも、すべてピカピカのホワイトカラーで統一されています。
「え、これがうちなの」と目を丸くしているのは、小学校2、3年生くらいの年頃の梨々子でした。そんな子ども時代の梨々子をどこからともなく見つめる中年の梨々子。三本目ともなると、さすがにこれはマッチが見せてくれている幻だと察しがつきます。
 
「市営住宅は子供部屋がなかったからね、お2階の右側が梨々子の子ども部屋、左が萌絵の子ども部屋。梨々子のお部屋の方が少しだけ大きいの、お姉さんだからね」とリビングの奥にあるオープンスタイルのキッチンから顔をのぞかせながら言ったのは、はるかに若い時代の母の佳代でした。
「壁が真っ白で殺風景だから、梨々子がお絵描きした絵をいっぱい飾ろうな」、黒い髪をした父の誠一郎が現れてそう言いました。
 両親の元気な姿を見るのは何年ぶりのことでしょうか。
 酔っていない父親は、きっとこんな風に穏やかに喋ることができたのだろうと中年の梨々子は思いました。
「お前はしょっちゅう絵を描いているけど、いつ見ても下手くそだな。授業参観で教室に飾ってあった絵を見て、お父さん恥ずかしくなったぞ。他の子は、あんなにうまいのに」そう言って酒で震える手でチラシの裏に描いた絵をビリビリと破られた記憶しかない中年の梨々子は、褒められて嬉しそうに鼻を膨らませている子どもの梨々子を愛おしく見つめるのでした。
 
「もっと早く越して来れば七五三のお祝いをこのお家(うち)でできたね。清美ちゃんの家にお呼ばれしたときみたないな。きれいな着物を着て、髪の毛を結って、梨々子が主役の七五三」
 子どもの梨々子はそう言うとうっとりと何かを夢想しているようでした。おそらく、従兄弟の清美ちゃんの七五三のお祝いにお呼ばれした日のことを思い出し、清美の姿に自分を重ねているのだと大人の梨々子は思いました。あの日、梨々子も7歳の七五三でした。けれど、梨々子は清美ちゃんの七五三にお呼ばれしてお祝いの席に行ったのでした。「私だって七五三だから着物を来て行く」と粘った梨々子は、「きょうの主役は清美ちゃんだから着飾ったらだめなのよ」と母に言われて、近所の薫ちゃんのおさがりでもらったチェック柄の地味なウールのアンサンブルの着物を着て、髪はシニヨンのお団子に小さく結って親戚宅へ向かったのでした。清美ちゃんは水色の地色に友禅染めで芍薬や菊などが描かれた振袖の着物を着て、髪は綺麗な日本髪に結って、髷にはつまみ細工のかんざしをつけていました。唇には紅をさし、まるで時代劇に出てくる城のお姫様のように上座に座っていたのでした。初めて見る手毬寿司を頬張りながら、母曰く「今日は清美ちゃんが主役」であるならば、いつか自分が主役になる日も来るはずだと思っていた梨々子でしたが、結局成人式になっても、その日はついにやってこなかったのです。

「ごめんね、梨々子の七五三はなかったものね。でもお誕生日なら毎年来るのだからお誕生会をやればいいじゃない」と母親は言いました。子どもの梨々子の瞳が嬉しさでキラリと輝いたのを大人の梨々子は見逃しませんでした。
「お友達を呼んでもいいの?私のお誕生日会も開いていいの?」こどもの梨々子がそう尋ねると、「もちろんいいわよ。梨々子のお誕生日会を開こうね。フライドチキンに紙のひらひらをつけて、お部屋をハッピーバスデーの旗で飾って、バルーンもいっぱい膨らまそう」と母。
「みんなへのお土産はチューリップの飴にしてね。直美ちゃんのお誕生会に行った時にもらったあの飴、すごく可愛いいもん。りかこもあれにする」
 子どもの梨々子は、出窓に置いてあるガラス製の一輪挿しに入った飴でできたチューリップの花束を指して母親にそうねだりました。
「直美ちゃんのお誕生会、クラスの男の子も呼んで、直美ちゃんのピアノで『ビューティフル・サンデー』を歌ったんだよ。りかこもピアノを習いに行って『ビューティフル・サンデー』を弾けるようにしなきゃ」
「そうね」と微笑む母を見て、両親に何かをねだったことのない梨々子は「いいぞ、いいぞ」と、無邪気にはしゃぎながら望みを口に出す子どもらしい梨々子に声援を送ります。
「『ビューティフル・サンデー』ならお父さん、田中星児の日本語版じゃなくて、英語版で歌えるんだぞ。梨々子の誕生日会で歌っちゃおうかな」と茶目っ気たっぷりに笑う父。
「えー、やだよー、お父さん音痴なんだもん」と子どもの梨々子は口を窄めます。
 昼間から酔っ払っていて、呂律の回らない状態で怒鳴り散らしている父親をクラスメートに知られないようにとビクビクしていた梨々子は、カタコトの英語でビューティフル・サンデーを歌っている父と、ゲラゲラ笑いながらその歌を聞いている子どもの梨々子の姿を幸せな気持ちで眺めていました。
 
 いつまでもその幻を眺めていたいけれど、もうすぐマッチの炎が消えるはずです。
「お母さん、私、イラストレーターになりたいなんて夢を見なければよかった。そんな夢を追っかけたから、子どものいない人生になっちゃったし、ずっと貧乏な一生だった。これって才能もないくせに夢を見た罰なのかな」 
 子どもの梨々子は、いつの間にか中年の梨々子になって、慌てて母親にそう告げました。いきなり中年になって目の前に現れた梨々子に驚くわけでもなく母親は
「だとしても梨々子は夢を見るしかなかったんじゃない? 自分には何かあると思わなければ、もたなかったでしょ」と諭すように大人の梨々子に向かって話しかけたのでした。
 マッチの炎が見せてくれた幻だとわかっていても、人生の大半を夫の酒癖の悪さに怯え、梨々子のことを「気の利かない根暗な子」と言ってきた母親がこの時ばかりは梨々子の味方になってくれたことが嬉しくて、梨々子は「夢を見るしかなかった」という言葉を噛みしめるのでした。
「お母さん、私がんばらなかったわけじゃないのよ。入って来た仕事は絶対断らなかったもん。明日の朝が締め切りという仕事だって、徹夜をして間に合わせてきたんだから。でも、使いやすいイラストレータというだけで、イラストそのものが認められたことなんて一度もないんだ」
 いい歳をした中年の梨々子に、そんな愚痴を吐露されても、今の梨々子の年齢よりも若い母親は嫌な顔ひとつせず、「上から見ていたから、お母さんは知ってるよ。どんなときも笑顔で誠実に対応して頑張ってたね」と大きくうなずきながら梨々子の話を聞くのでした。
 次の瞬間、リビングに差し込んでいた太陽の光りがスーッと落ちて、あたりは再び福富町仲通りの掃き溜めのような場所に戻りました。けれど、梨々子の幸せな気分は続いていました。体の奥の方、おへその下の丹田といわれる部分が、それこそマッチの炎で照らされたようにじんわりと温かくなって、その温もりが身体中、手指の先にまで広がっていき、全身が幸福感ですっぽりと包み込まれているのを実感しました。
「いい夢だったなぁ」
そう呟きながら天を仰ぎますと、ビルとビルの隙間から空が見えました。紺青に沈んだ空には、星が瞬いています。その中で梨々子に見分けがついたのは、オリオン座とおおいぬ座でした。星々のなかでも、オリオン座のリゲルと、おおいぬ座のシリウスはひときわ大きな輝きを放っていました。
 
 梨々子は星の煌めきをうっとりと見つめながら、「もう一箱マッチを買えばいいだけの話だ」と思いつきました。家を出る時に財布には1万円札が1枚入っていました。ギャラリーで個展をしているマキ・ハヤシダへの手土産として不二家で2800円のクッキー詰め合わせを購入し、先ほどマッチを購入した時に6000円を使ったので財布の中には1000円札が1枚あるきりです。だけれど問題はありません、イセザキモールまで戻って、競馬の馬券売り場が入っているエクセル伊勢崎にある横浜銀行のATMでお金をおろせばいいだけです。今月は、イラストの作業で使うアドビのアプリケーションのサブスク7万円が口座から引き落とされ、大学生と高校生となった姪と甥のお年玉の準備もありましたが、別に構うものかと梨々子は腹をくくりました。今はどうしてでもマッチを手に入れたかったのです。
 
 小走りでエクセル伊勢崎の横浜銀行ATMに向かう途中、梨々子は中学生になってからの出来事を思い出していました。美術部の課題で夜遅くまでかかって丹念に平面構成の作品に取り掛かっていたときのことでした。自室がなかった梨々子は寝ている妹の邪魔にならないよう台所で作業をしていたのですが、台所の電灯の灯りが襖の隙間か父親が寝ている部屋に漏れていたのでしょう。「こんな時間まで電気をつけられたら寝られない。ガタガタ音も立てて耳障りだ」と父親が怒り出したのです。仕方なく梨々子は、玄関から続く、お風呂場とトイレの前にある洗面スペースに置いてある洗濯機を机の代わりにしてデザイン画を仕上げることにしました。すると今度は意図せずトイレの前を塞ぐことになり、夜中にトイレに行こうと起きた父親にまたもや「邪魔だ、通れないじゃないか」と怒鳴られ、挙げ句の果てに、あと一塗りで完成という平面構成の作品に筆洗の水をぶちまけられたのでした。
「文化祭で展示する作品だったのに。明日が提出なのに。かぼちゃの断面の幾何学構成、すごくうまくいっていたんだよ」と大泣きする梨々子に、起きてきた母親は「こんなところでやってるあんたが悪いんだよ。お父さんに謝りな」とにべもなく言い放ったのでした。
 不意に蘇ってきたそんなしけた記憶をかき消すためにもマッチを擦る必要がありました。  
 横浜銀行のATMに向かう道すがら、ちらりと有林堂ビルの脇をみましたら、さきほどのマッチ売りの女の子が見えました。夜になっても、あいかわらずマッチは売れないようで、足首まで積もった雪の中で、もはや「マッチはいりませんか」という声を出すこともなく、ぼんやりと宙を見ながら佇んでいました。
 
 時間外手数料が取られるのが嫌で日曜祝日や時間外に決してお金をおろしたことがない梨々子でしたが、今日は違いました。ATMで6000円きっかりをおろすと、残高は2万円7000円になりました。でも大丈夫、月末にはコンビニ夜勤のバイト代5万6000円と、企業ホームページのアイコンのイラスト作成のギャランティ5万円、組版の外注費3万円が振り込まれるはずです。アドビのサブスクが7万円の引き落としで、お年玉で2万円が消え、そこからさらに年金や健康保険、市民税などの分を差し引くと新年1月の月初にして既にマイナスになるけどもうこの際どうでもいい、マッチがあればいいのだと梨々子は確信しました。ちらりと夫の雅紀の顔が思い浮かばないでもありませんでしたが、それさえももはやどうでもいいことの部類の1つに追いやられていました。子どものない人生にさせてしまい、かといってディンクスといえるほど妻の収入はなく、よくある妻の実家の援助も一切ない、まさに嫁ガチャハズレクジになってしまったことは申し訳ないと常々感じていましたが、だからといって今は自制がきかず、マッチが喉から手が出るくらいに欲しいのです。
 
「あの」梨々子が話しかけると、女の子はゆっくりと後ろを振り返り、梨々子を見て天使のように優しくほほ笑んで「さっきはどうも」と言いました。女の子はマフラーもせずに首元が寒かったのか、金色に染めた長い髪をマフラーがわりに首に巻いていました。
「マッチを一箱」
梨々子が6000円を差し出すと、女の子はさきほどと同じようにカゴの中からマッチを一箱取り出して梨々子に手渡してくれました。先程と違うのはマッチ箱の絵がコンドルではなく、今度は黄色い象の絵柄であったことと、女の子が「もし、もっとマッチが欲しいなら」と梨々子に話しかけたことでした。
「マッチを売れば? 黄金町の親方を紹介してあげようか?」
きょとんとしている梨々子に女の子は
「1箱6000円で売ると、3000円がもらえるの。だから2箱売れば1箱買えるってわけ。ただしここは私の場所だから、別の場所を見つけて。阪東橋のあたりに空きがあったと思うけど」とたたみかけました。
「大丈夫、これが最後だから」
 梨々子はそう言うと奪うようにマッチ箱を受け取り、マッチを擦りたい一心で、小走りで元いた福富町仲通りの雑居ビルと雑居ビルの隙間を目指しました。
「こんなことで人生ってワクワクできるんだ」6000円で手に入れた高揚感を噛み締めながら通りを抜けて行きました。500円の買い物を我慢して、友人が海外旅行に行こうが、エルメスのバッグを買おうが、通帳の残高を見て、これが自分の価値の全てであり、たった5桁の価値しかない人間なのだと諦めるように言いきかせ、我慢に我慢を重ねて、土日も祝日も休日も働いてきた梨々子でした。そんな真面目一筋のこれまでは、なんてアホくさく、むなしい人生であったことか、そのことにもっと早くに気づいて、自分の欲求や快楽を追求すればよかったと心の底から思うのでした。

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